hohi’s blog

初期仏教の勉強・実践とパーリ語の学習

慈悲(Metta)の実践

Access to Insight Library にある Ñanamoli Thera によ る"The Practice of Loving-Kindness (Metta): As Taught by the Buddha in the Pali Canon", compiled and translated by Ñanamoli Thera. Access to Insight (Legacy Edition), 30 November 2013, http://www.accesstoinsight.org/lib/authors/nanamoli/wheel007.html を訳してみたものです。

実際に訳してみて、分かり難いところもありました。勘違いや間違いがあるかも知れません。お知らせ頂けると幸いです。


   はじめに   

love「愛」という語 — 英語の中で最も引き込まれる語の一つ—は通常とても広く、大まかで、深遠な意味で使われているため、時にほとんど無意味になっています。 それでも、正しく理解されるならば、愛は平和で進歩的で健康な社会の構築だけでなく、個人の成長と清浄のために不可欠で大事な基礎です。

さて、愛というものは主要な二つの気持ちを考えることができます: 恋人が互いに抱くもの、そして、母親が子に抱くものです。 精神論的な流儀では、愛は一方あるいは他方から刺激を引き出すことができるものです。 恋人達の互いへの愛を理想とするような愛は、しばしば激しい激情と見なされ、時に苦痛や受難などを通じた純粋さを要求します。 しかし、子への母親の愛を指標とする愛は、全ての安全、幸福、精神的な健康(自分の健康を守るように母親は子に最善を尽くします)の純粋な理想的な源泉までに、それ自身を高めることができます。 ブッダが普遍的な愛(訳注:慈悲)の教えの基礎としているのは、この後者の種類の類です。

ギリシャ語では感覚的(訳注: 性的)なエロスと精神的な愛(訳注: 神の愛)の二つを区別しているのに対して、英語は"love"「愛」の一つの語だけを用います。 パーリ語では、サンスクリット語のように、多くのニュアンスの意味を包含する単語が沢山あります。 この教えに対してブッダがお選びになった言葉は、mitta 友(より正確には「真の友」)という語から、mettaです。

ブッダの教えのmettaは、他の生命との健全・平和な関係を育てるための四つの瞑想の最初に挙げられています。 その四つとは、metta(訳注: 慈)今後は「慈しみ」と解します、karuṇā(訳注: 悲) これは「憐れみ」「同情」、muditā (訳注: 喜)これは「他者の成就を喜ぶこと」、そしてupekkhā (訳注: 捨) これは「落ち着いて観ること」です。 この四つは神の境地に留まること(brahmavihāra 訳注: 梵住)と呼ばれます。多分、これらの一つでも瞬間に維持できるのであれば誰でも、その時は最高の神(brahmā 梵天)が留まっているような状態にいるからでしょう。

ブッダの教えでは、この四つの梵住は「世間の最高の功徳」とされ、存在の本質の智慧が無くても、実践するだけで、一番高い神の境遇へ生まれ変わることができるとされています。 ですが、天界の存在も無常の例外ではありません。天界での寿命が尽きれば — それがどんなに長くても — その存在は死に、過去の業に応じて生まれ変わります。 これは存在への渇愛(人間であれ、神であれ)と、真理とは相容れない見解がその人に潜在していると、前世での善果を尽くしてしまうと、それらが再び湧き出てくるからです。 そうなると、転生することは確かですが、どの境遇に転生するからは予言できません。

ブッダ智慧の教えは、出来る限り簡潔にまとめると、次のようなことの智慧と見方を育てることです: 主観であれ客観であれ、いかなる物事がどのようにしてそうなっているか、 いかに条件を通じてのみ存在しているか、その存在の条件に永遠のものがないことから、いかにそれらが無常であるか、 常に複合的で無常の存在が、いかに苦しみから逃れらないか、そして 惹きつけられる、当てにならない考えで虹色の蜃気楼であるところの自我がいかに見つけることが出来ないか、 いかに楽しみの幻想が常に更新されているか。 さらに加えて、教えは苦しみからの本当の脱する道を示しています。 それは四聖諦に簡潔な形で表現されています: 苦の真理、苦の原因の真理(渇愛)、苦が滅することの真理(渇愛の放棄を通じて)、そして苦を滅する道の真理です。 この四つの真理はブッダ達の教えに特有のものと呼ばれています (Buddhānaṃ sāmukkaṃsika desanā 訳注: 諸仏の最勝の教え)。 なぜならブッダ達だけが発見した真理だからです。

この道(四聖諦)はまた中道とも呼ばれます。これは、快楽主義と苦行の二つの極端な道を避けるからです。 その八つの道は、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定です。 慈悲の実践だけでは、最初以外の七つにいくばくかの効果があります。しかし、涅槃に達するにはまさに正見(自己欺瞞なく)が必要です。 正見によって、人、神の存在の、幻想、まやかしの本当の性質に対する洞察を得ることができ、正見の助けによって慈悲の実践は完全になり、 天界ですら逃れられない無常からの脱出、苦の真の消滅に導くのです。

真の苦の消滅は、邪見による幻想を捨て去り、欲と怒りの二つの渇愛の流れを枯渇させることで実現されます。 この、欲と怒りと無知の根絶が涅槃と呼ばれます。

以下に示す経典は(順番に)次のことを示しています: 全ての怒りと憎しみの惨めさ(ブッダの教えには正当な怒りというものは存在しません); 慈悲の功徳; 瞑想としての慈悲の実践; それによる転生の果; すべての存在が無常であり、苦であり、無我であることを観ること。これは真理と一致した見解を持つのに必要で、これなければ束縛からの確固たる解放の第一段階に到達できません。 (たとえ天界であっても、生まれること、命の代償が死であるかを理解できるようになるのは、まさにこの智慧です); そして最後に、全ての欲、怒り、無知を克服し、人あるいは神になること、生まれ変わることへの欲がこれを最後に無くなることで、阿羅漢果を得ること。

けれどもまずは、経典の前に、瞑想のマニュアル Visuddhimagga 「清浄道論」に述べられている内容を置いておくわけにはいきません。

metta (慈悲)は次のように定義されています: 「 慈悲はその性質として、友好的な気持ちを持っています。 そのふさわしい機能は、友好を育てることです。 それは悪意の消滅として明確に現れます。 その基盤は思いやりで見ることです。 上手くいくと、悪意を消し去ることができます。 上手く行かない時は、利己的な愛着の欲望に堕落します。 」

Visuddhimaggaでは、楽な姿勢で座ることができる、静かな場所に行くことを推奨しています。 それから、実際に瞑想を開始する前に、憎しみの危険と、忍耐(寛容)による利点について考えることが役立ちます。 というのは、この瞑想の目的が憎しみを忍耐(寛容)に置き換えることだから、さらに、(訳注: 憎しみによる)まだ遭遇していない危険を避けられないことだから、(訳注: 寛容によって)まだ知らない功徳を育てることだからです。

それから、最初のうちは、ある種の人々に対しては慈悲の対象とすべきではありません。 最初のうちは、嫌いな人々を親愛なる人とみなすことは、とても疲れます。同様にとても親しい友人を中立的な態度でみなすこと、怒りが湧き上がる敵の時も、とても疲れます。 また、最初のうちは、異性に対しても向けるべきではありません。それは性欲を刺激することがあるからです。 最初は、慈悲の瞑想は次のように、まず自分に向けて繰り返し行いなさい: 「私は幸せでありますように。私の苦しみが無くなりますように」、あるいは「私が憎しみや苦しみから逃れられますように。そして幸せに生きられますように」(これによって、瞑想による完全な定に入ることはありませんが)。 例として自身を「幸せでありますように」と念ずる訓練によって、他の生命の幸福・幸せを考え始め、あたかも自分のことであるかのように、その生命の幸せを感じるようになるのです。 「私が幸せと苦しみから逃れられることを望むのと同様に、私が生きていたくて、死にたくないと望むのと同様に、他の生命もそうである」 ですから、最初は自分を例にして慈悲の気持ちを広げて慣れるようにしなさい。 その時は、好ましく思っていて、高く評価していて、とても尊敬している人を対象に選びなさい。 その人に向けて、慕う言葉やその人の美徳を思い起こしながら、「幸せでありますように」とその人のことを思い浮かべて瞑想を行いなさい。 (こうして、言葉の瞑想は置き去りにして、瞑想の完全な定に入ることができます。)

このやり方に慣れてきたら、慈悲を親しく最愛の仲間に向けて実践したり、中立的な人に親しみを向けて実践したり、敵と思っている相手を中立的に見なして実践しなさい。 敵と思っている相手のことを考えて怒りが生じた時は、あらゆる手段でそれを取り除きなさい。 これが上手く出来るようになると間もなく、敵と思っている相手に憤りを感じること無く見なせるようになり、他の高く評価している人々、親しい仲間、中立的な人々に対してと同様に慈悲の気持ちを持てるようになります。 これを繰り返し訓練することで、すべての場合でjhāna 禅定が得られるでしょう。 慈悲はもはやすべての生命に対して向けることが出来ます; ある時はいくつかの特定のグループの生命に対して、ある時のある方向から全部へ、連続して特定のいくつかのグループに対して、という風にです。

慈悲は人と人との間にいかなるバリアもないところまで高めるべきなのです。この説明には次の喩えが良いでしょう: ある人が、仲間と、中立的な人と、敵と思っている人といたとしましょう。 そして賊がきてこう言います:「我々はあなた方のうち一人の人間の生贄が必要です」。 ここで、もしも「この人、あるいはこの人を差し出そう」と思うなら、その人はバリアをまだ壊していません。同様に「他の三人ではなく、私を差し出そう」と思うのも、また、バリアを壊していません。 なぜでしょうか。 それは、その人が差し出そうとした人に害を加えようとしており、また他の三人だけの利益を考えているからです。 いずれかの三人を優先させて四人のうちのだれか一人だけを探すことがなく、自身にも他の三人にも偏りなく気持ちを向けている時に、ようやくバリアを壊したと言えるのです。

慈悲は、「内なる敵」として欲を持っています。それは慈悲が生まれると簡単に入り込みます。そして、それに対して慈悲をよく守りなさい。 この欲に対する特効薬はSatipaṭṭhāna Sutta (長部経典 22と中部経典 10 訳注: 念処経)に述べられている(身体)の不浄観の瞑想です。 慈悲の「外なる敵」はその対角にある悪意です。それは慈悲がしっかり実践されていない隙間に顔を出すことが分かります。 (詳細の全部についてはVisuddhimaggaのIX章にあります。)

多くの経典でブッダは瞑想での集中力(訳注: 定)と智慧のバランスの必要性を強調しています。 それらは互いに欠点を補い合います。 集中力だけでは、方向性が欠けます。 智慧だけでは、無味で飽きます。 経典では、子供に対する母親の愛の喩えがあります。 上記の全て種類の上に位置する、比類のない母親の愛情は、母親が子供の幸福を理解している上に成り立っています。 — 母親の愛情は盲目ではありません。 愛情だけ、確信だけでは、苦しみの完全な消滅への道が開かれません。ですから偉大なる医者としてのブッダは五つの能力を、バランスのよい調和で育てることを教示されたのです:その五つは 信力、精進力、念力、定力、慧力です。

こうして、目的を達する方法として見なされる、最上の形の愛情の集中力は ブッダだけが教え、他の誰も教えていない形です — 人の究極の幸福である涅槃「束縛からの最勝の安全」(anuttaraṃ yogakkhemaṃ)を自ら体験する人のなかで、完全に清らかなものとなります。 自身の体験から、苦しみを調べ、苦しみの原因を無くし、苦しみの消滅を実現し、その道が保たれた時だけ、それらの幸福がずっと保証されることを知ります。 そうして、自身で四聖諦を確かめて、存在の幸福について正しく見極めることができるのです。

「比丘たちよ、四聖諦を発見せず、理解しなかったために、私もあなた方も永い輪廻転生を繰り返しを歩き、旅してきたのです。」 (長部経典 大般涅槃経 第二章). まだこの境地に達していない生命のために、ブッダによってその道が発見され、示され、阿羅漢達によってその実践が証明されているのです。

実際、この経典コレクションの最後では、慈悲を乗り物として活用して四聖諦を自ら体験したやり方が示されています。

出典についての注釈

アングッタラ・ニカーヤ(増支部経典)からの経典には、番号の後に nipāta(訳注: 偈集)を添えてあります。 サンユッタ・ニカーヤ(相応部経典)からの経典には、番号の後に、saṃyuttaを添えてあります。

    慈悲の実践   

怒りの惨めさ

1. 増支部経典 7:60 から (ブッダの言葉)

比丘たちよ、男であれ、女であれ、怒っている者に対して降りかかる、敵を満足させ、助けることが七つあります。 その七つとはなんでしょうか。

ここに、比丘たちよ、敵は自分の敵に対して「醜くあれ」と願います。 これは何故でしょうか。 自分の敵の美しさを好む敵はいません。 怒っている時、怒りの餌食になっている時、怒りに支配されている時の人は、どんなに身体を綺麗にしていても、清められていても、髪や髭を手入れされていても、真っ白な服を着ていても、それでも、怒りの餌食になっていることから彼は醜いのです。 これが、男であれ、女であれ、怒っている者に対して降りかかる、敵を満足させ助ける一番目のことです。

また、敵は自分の敵に対して「苦しみで横たわれ」と願います。 これは何故でしょうか。 自分の敵が、心地よく横たわっていることを好む敵はいません。 怒っている時、怒りの餌食になっている時、怒りに支配されている時の人は、敷物、毛布、鹿皮のカバーで覆われた寝台に横たわろうが、装飾や赤いクッションの上に頭や足をのせていようが、怒りの餌食になっていることから彼は苦しんで横たわるのです。 これが、男であれ、女であれ、怒っている者に対して降りかかる、敵を満足させ助ける二番目のことです。

また、敵は自分の敵に対して「繁栄がなくなれ」と願います。 これは何故でしょうか。 自分の敵の繁栄を好む敵はいません。 怒っている時、怒りの餌食になっている時、怒りに支配されている時の人は、良いことを悪いことと誤解し、悪いことを良いことと誤解し、一方が他方の意図を間違って受け取ります。怒りの餌食になっていることから、これらが長く害と苦しみを彼に導きます。 これが、男であれ、女であれ、怒っている者に対して降りかかる、敵を満足させ助ける三番目のことです。

また、敵は自分の敵に対して「豊かさがなくなれ」と願います。 これは何故でしょうか。 自分の敵の豊かさを好む敵はいません。 怒っている時、怒りの餌食になっている時、怒りに支配されている時の人は、努力、自身の腕の力によって得られた、汗や合法に稼いだ、あるいは合法に得られたもので豊かになったとしても、それでも、怒りの餌食になっていることから、王の役人が(罰として)集めてしまいます。 これが、男であれ、女であれ、怒っている者に対して降りかかる、敵を満足させ助ける四番目のことです。

また、敵は自分の敵に対して「名声がなくなれ」と願います。 これは何故でしょうか。 自分の敵の名声を好む敵はいません。 怒っている時、怒りの餌食になっている時、怒りに支配されている時の人は、勤勉さで得られた名声かも知れませんが、怒りの餌食になっていることから、名声を失います。 これが、男であれ、女であれ、怒っている者に対して降りかかる、敵を満足させ助ける五番目のことです。

また、敵は自分の敵に対して「友達がなくなれ」と願います。 これは何故でしょうか。 自分の敵に友達がいることを好む敵はいません。 怒っている時、怒りの餌食になっている時、怒りに支配されている時の人は、友達や仲間、親類縁者であろうと、怒りの餌食になっていることから、彼から離れるでしょう。 これが、男であれ、女であれ、怒っている者に対して降りかかる、敵を満足させ助ける六番目のことです。

また、敵は自分の敵に対して「身体の消滅する死後、剥奪された状態、悪い境遇、破滅の境遇、地獄にすら転生しろ」と願います。 これは何故でしょうか。 自分の敵が良い境遇に転生することを好む敵はいません。 怒っている時、怒りの餌食になっている時、怒りに支配されている時の人は、怒りの餌食になっていることから、身体、言葉、心で悪い行いをし、この身体、言葉、心の悪い行いによって、身体の消滅する死後、剥奪された状態、悪い境遇、破滅の境遇、地獄にすら転生します。 これが、男であれ、女であれ、怒っている者に対して降りかかる、敵を満足させ助ける七番目のことです。

人が怒りを持っている時
彼は醜い 彼は痛みで横たわる
彼が受け取る利益は
不運として誤解すること。
彼は(罰として)富を失う
なぜなら、彼は有害に働いてきたから
身体と言葉の行いを通じて
怒りの感情に打ち負かされたから。
彼を怒り狂わせる激怒と憤怒は
悪評という名のものを彼に与える。
彼の仲間、親類、縁者らは
遠くから彼を避けようとする
そして怒りは惨めさを生み出す。
この激憤は心を曇らせ
その男は分別できない
この恐ろしい内なる危険を。 怒りの者は知る由もない
怒りの者はダンマを理解することはない
盲目のように、暗黒にくるまれ
彼は怒っている愚か者である。

怒る者は誰かを害する
しかし、その怒りが後で尽きた時
それが難しかろうが、易しかろうが、
火で焼かれるように、彼は苦しむ。
その者の見た目は不機嫌を晒し
それは、くすんで、くすぶる、抑えがたい紅潮である。
怒りの炎が揺らめく時は常に
その者らの世界を燃やす。
その者は恥らい、良心による抑制を持たず
その者からは思いやりの言葉は出てこない
逃れる島はない
怒っている愚か者には。

そういった行為はきっと後悔をする
そういった行為は本当のダンマからはかけ離れている:
私が語ることはこのこと(訳注: 本当のダンマ)です、
ですから、私の言葉に耳を傾けなさい。

怒りはその者に父親殺しをさせる
怒りはその者に母親殺しをさせる
怒りはその者に聖者を殺戮させることもできる
普通の人を殺すかのように。
母親に乳をもらい、育てられ
その者は世界を分かるようになる
それでも、普通の者でも怒りを持つなら
命を与えてくれた者を殺す。

いかなる者も自分にとって良いことを探す
自分よりも最も愛おしい者はいない
怒りの者らは、彼ら自身を殺す
色んな理由で怒り狂って。
その者らは、気がふれて自身を短剣で突き刺す
自暴自棄で毒をあおる
縄に首をかけ、あるいは身を投げ出して非業の死をとげる
自身を絶望に晒して。
その者らの命を壊す行いが、いかに
彼ら自身にもまた死をもたらすか
彼らは理解できない、そして
怒りが呼ぶ破滅をも。

この秘密の場所は、怒りの助けを借り
死ぬ運命は罠をしかける。
鍛錬によって汚れを拭き取るために、
智慧と精進と正見でもって
一つずつ悪行を改めていく
賢き者は精進せよ
本当のダンマに沿うように訓練して。
「怒りのくすぶりが我々からなくなるように」と
そして激怒を取り除き、怒りから解放され
欲望を取り除き、妬みから解放され
よく鍛錬し、怒りを置いてきて
清らかになるならば、その者らは涅槃に達する。

怒りの取り除き方

2. ダンマパダ, 第3-5偈 および 中部経典 128 から (ブッダの言葉)

「彼は私を罵った、彼は私を打った、
かれは私を負かした、彼は私から奪った」
怒りが和らぐことはない。
そういう憎しみを抱く者らには。
「彼は私を罵った、彼は私を打った、
かれは私を負かした、彼は私から奪った」
怒りは必ず静まる、
そのような憎しみを抱かない者らには。
怒りによって、怒りは
この世界からは決して静まらない。
怒らないことで静まる。
これは昔からの真理である

3. 増支部経典 5:161 から (ブッダの言葉)

比丘たちよ、怒りが生じた時に、怒りを完全に取り除く方法が五つあります。 その五つとは何でしょうか。

悩まされている相手に慈しみを気持ちを向けなさい。こうして怒りを取り除くことができます。 悩まされている相手に憐れみ(同情)の気持ちを向けなさい。これもまた、怒りを取り除くことができます。 悩まされている相手を平静で眺める気持ちを向けなさい。これもまた、怒りを取り除くことができます。 悩まされている相手のことを忘れ無視することを実践しなさい。これもまた、怒りを取り除くことができます。 悩まされている相手に対して、人の行為の所有者を次のように念じなさい: 「この善良な人は彼の行為の所有者です、彼の行為を受け取る人です、彼の行為は彼が生まれる子宮です、彼の行為は彼が責任を持つ親類です、彼の行為が彼の家です、彼が自分の行為を継承する人です、その行為が善くても悪くても。」 これもまた、怒りを取り除くことができます。 これらが、悩みが生じた時に、悩みを完全に取り除く五つの方法です。

慈悲とその功徳

4. 中部経典 21 から (ブッダの言葉)

比丘たちよ、他の人々があなた方のことを話題にする時に五つの場合があります。 その話が折が良い・悪い場合、真理である・真理ではない場合、優しい言葉・乱暴な言葉の場合、有益・有害な場合、慈しみの気持ち・憎しみの気持ちの場合です。

ある人が鍬とカゴを持ってやってきて、「この大地から土を無くしてしまおう」と言ったとしましょう。 そして、「土をなくそう、土をなくそう」と言いながら、あちこちを掘り、あちこちにばらまき、あちこちに唾をかけ、あちこちに放尿します。 比丘たちよ、彼はこの大地から土を無くすことができるでと思いますか。 — いいえ、世尊よ。 なぜでしょうか。大地は、深くて、測り知れないからです。大地から土を無くすことはできません。 こうして、その者は疲れ果てて、がっかりするでしょう。

ある人が褐色、橙色、青、真紅の絵の具を持ってきて「この空に絵を描いて見えるようにしてやろう」と言ったとしましょう。 比丘たちよ、彼はこの空に絵を描いて見えるようにできると思いますか。— いいえ、世尊よ。 なぜでしょうか。空は形がなく見えないからです。 彼は絵を描き見えるようにできません。 こうして、その者は疲れ果てて、がっかりするでしょう。

また、比丘たちよ、他の人々があなた方のことを話題にする時に五つの場合があります。 その話が折が良い・悪い場合、真理である・真理ではない場合、優しい言葉・乱暴な言葉の場合、有益・有害な場合、慈しみの気持ち・憎しみの気持ちの場合です。 その時でもあなた方は次のように訓練しなさい: 「私達の心は揺らぎません、乱暴な言葉は口にしません、慈しみと憐れみに住みます、慈悲の気持ちを持ちます、憎しみを持ちません。 私達は他の人びとも包む慈悲の心に留まります、その慈悲の対象を世界全体に広げて住みます、満ち溢れ、喜ばしく、無量の慈悲の気持ちを持ちます、敵意や悪意を持ちません」と。 このようにあなた方は訓練しなさい。

賊が両手鋸で足を切り落としている時でも、心が怒りで汚れる者は、私の教えを守る徒ではありません。

比丘たちよ、この鋸の喩えの教えを心に刻んでおきなさい。

5. 如是語経 27 から (ブッダの言葉)

比丘たちよ、いかなる世間的な利益があろうとも、慈悲による心の救いの十六分の一にも及びません。 慈悲による心は、その救いの輝き、光、発する明るさで、それらより遥かに勝っています。

それは、いかなる星の光であろうとも、月の光の十六分の一ほどの価値もないようなものです。 月の輝き、光、発する明るさは、それらより遥かに勝っています。 そして、雨季の最後の月、秋の晴れた空で、太陽がその輝き、光、発する明るさで、すべての闇を空から追いやるようなものです。 そして、夜が明ける時に、明け方の星がその輝き、光、明るさを発するようなものです。 このようにして、いかなる世間的な利益があろうとも、慈悲による心の救いの十六分の一にも及びません。 慈悲による心の救いは、その輝き、光、発する明るさで、それらより遥かに勝っています。

6. 増支部経典 11:16 から (ブッダの言葉)

比丘たちよ、慈悲の心を保ち続け、乗り物として活用し、基盤として活用し、確立し、強固なものとし、適切に管理しているならば、その者には十一の利益があります。 その十一とは何でしょうか。

快適に眠りにつきます、快適に目覚めます、悪夢を見ません、 人々に親しまれます、 人間以外の生命からも親しまれます 神々から守られます、 火や毒や武器から害されません、 心がすぐに集中できます、 顔の表情が落ち着いています、 死に際して混乱することがありません、 たとえ真理に到達しなかったとしても、神々の境遇、梵天の境遇に転生します。

7. 相応部経典 20:3 から (ブッダの言葉)

比丘たちよ、女が多く、男が少ない一族は、盗人や賊によって簡単に滅んでしまうように、慈悲の心を保持せず、満たしていない比丘は、人間以外の存在によって簡単に滅びます。 比丘たちよ、女が少なく、男が多い一族は、盗人や賊によって簡単に滅ぶことが無いように、慈悲の心を保持し、満たしている比丘は、人間以外の存在によって簡単に滅ぶことがありません。 ですから、比丘たちよ、このように訓練しなさい: 慈悲の心を保持し、満たし、乗り物として活用し、基盤として活用し、確立し、強固なものとし、適切に管理するようにしなさい。 このようにして、訓練しなさい。

8. 増支部経典 1:53-55, 386 から (ブッダの言葉)

比丘たちよ、指を鳴らす間だけでも慈悲を育てている者は、比丘と呼ばれます。 彼は瞑想で禅定に至っていなくても、師の教えを実践しています、助言に従っています、布施された食事を無駄に食べてはいません。 ですから、慈悲の心を満たしている者については、何をいう必要があるでしょうか。

9. 長部経典33から (阿羅漢サーリプッタ尊者の言葉)

ここに、友よ、比丘がこう言います:「慈悲の心が保たれて、満たされていて、乗り物として活用し、基盤として活用し、確立し、強固なものとなっており、適切に管理している時、それでも悪意は自分の心に入り込んで、留まるだろう」と。 彼はこう言われるべきです:「そうではありません。世尊はそう仰っていません。世尊の言葉を間違って伝えてはいけません。世尊の言葉を間違って伝えるのは善いことではありません。世尊はそのように表現されていません」と。 友よ、慈悲の心が保たれて、満たされていて、乗り物として活用し、基盤として活用し、確立し、強固なものとなっており、適切に管理している時、悪意が心に絶対に入り込んで、留まることはできることは、不可能ですし、あり得ません。 ですので、慈悲の心を保つことは、悪意からの解放と言われるのです。

瞑想としての慈悲

10. 慈経, スッタニパータ 第143-152偈から (ブッダの言葉)

善なる道に巧みに励む者が
平安を得るために行うべきことは次の通りです
何事にも優れ、正しく、真っ直ぐで、
話をよく聞き、優しく、自惚れがなく、

また、満ち足りて、指導しやすく、
雑事が少なく、簡潔に生活し、
感覚器官は落ち着き、賢明で、慎みがあり、
在家への感情に囚われないように。

賢者が批判するかもしれない
どんな些細な事もしないように。
(こう念じなさい):「安らかで、幸せで
すべての生命が、幸せでありますように!

呼吸するいかなるものでも、
か弱いものでも、強いものでも、
長いものであれ、大きいものであれ
中くらいのものであれ、短いものであれ、
小さいものであれ、巨大なものであれ、

見えるものでも、見えないものでも
遠くに住するものであれ、近くに住するものであれ、
既に生まれたものであれ、生まれようとしているものであれ、
すべての生命が幸せでありますように!

いかなる時も、誰をも騙さず、
軽蔑すらしないように。
怒りや、腹を立てて
互いの苦しみを望んではいけません」と。

たった一人の子供を守るために
母親が命をかけるように
すべての生命に対して
無量の心を保ちなさい。

この無量の慈しみの念を
この世のすべての生命に向け続けなさい。
上にも、下にも、横にも、
わだかまりなく、憎しみなく、敵意ないように。

立っている時も、歩いているときも、座っている時も
横になっている時も、眠っていない限り
この念を保ち続けなさい。
これが梵天の生き方と言われます。

邪見に囚われず、
戒を守り、正見を得て、
感覚の欲望から自由になる時、
二度と子宮に宿ることはありません。

11. 順序立った訓練: 無礙解道から (伝統的に阿羅漢サーリプッタ尊者の言葉と解される)

慈悲の瞑想は、不特定の対象、特定の対象、特定の方向に向けて行います。

対象を特定しない時は、次の五つのやり方で実践しなさい: 全ての生き物が憎しみ、悩み、苦しみから解放されますように、そして幸せでありますように。

すべての呼吸するもの達が...、全ての生物が...、全ての人が...、全ての身体を持つものが憎しみ、悩み、苦しみから解放されますように、そして幸せでありますように。

特定の対象に向ける時は次の七つのやり方で実践しなさい: すべての女性が憎しみ、悩み、苦しみから解放されますように、そして幸せでありますように。 すべての男性が...、すべての聖者が...、聖者でない全ての人々が...、すべての神々が...、すべての人間が...、すべての惨めな境遇の生き物が、憎しみ、悩み、苦しみから解放されますように、そして幸せでありますように。

特定の方向に向ける時は、次の十のやり方で実践しなさい:

東の方向のすべての生命が憎しみ、悩み、苦しみから解放されますように、そして幸せでありますように。 西の方向の全ての生命が...、北の方向の...、南の方向の...、東の中間の方向の...、西の中間の方向の...、北の中間の方向の...、南の中間の方向の...、下の方向の...、上の方向のすべての生命が、憎しみ、悩み、苦しみから解放されますように、そして幸せでありますように。

呼吸をするすべての生命が...

すべての生き物が...

すべての人々が...

すべての形あるものが...

すべての女性が...

すべての男性が...

すべての聖者が...

聖者ではない全ての人々が...

すべての神々が...

すべての人間が...

東の方向のすべての惨めな境遇の生き物が、憎しみ、悩み、苦しみから解放されますように、そして幸せでありますように、...、 上の方向のすべての惨めな境遇の生き物が、憎しみ、悩み、苦しみから解放されますように、そして幸せでありますように。

12. アビダンマ, Appamaññāvibhaṅgaより (伝統的にブッダの言葉と解される)

どのようにして、比丘は一方向だけでなく広がった慈悲で心を染めて住するのでしょうか。親しい最愛の人を見る時に友好を感じるように、全ての生命に慈悲を広げるのです。

四聖諦の智慧がない場合の実践

13. 中部経典 99 から (ブッダの言葉)

「師ゴータマよ、師ゴータマが位の高い神々の境地への道を教えていると聞きました。 師ゴータマが私に教えてくださるとありがたいのです。」

「それでは、私が言うことに注意深く耳を傾け、心を傾けなさい」。

「まさにその通りにいたします、師よ」とスバ・トーデッヤプッタは答えました。世尊はこう語られました:

「では、位の高い神々の境地への道とは何でしょうか。 ここに、比丘が、慈悲で心を染め、一方向、二番目の方向にも、三番目の方向にも、四番目の方向にも、上にも、下にも、周囲にも、そして、どころでも、あたかも自分に対してのように、全てにその心を広げて住します。 彼は、慈悲が豊かで、崇高で、無量の慈悲の心を持ち、敵意、悪意がなく、周囲の全てのものにその心を広げて住します。 このように慈悲で心が解放されている状態が保たれているならば、有限の大きさで制限されるような動作はなく、存続することはありません。 あたかも、力強い笛吹きが四方に響きわたらせることが簡単にできるように、このように慈悲で心が解放されている状態が保たれているならば、有限の大きさで制限されるような動作はなく、存続することはありません。 これが位の高い神々の境地への道です」と。

四聖諦の智慧とともに実践する場合

14. 増支部経典 4:125 より (ブッダの言葉)

ここに、比丘たちよ、ある者が慈悲で心を染め、一方向、二番目の方向にも、三番目の方向にも、四番目の方向にも、上にも、下にも、周囲にも、そして、どころでも、あたかも自分に対してのように、全てにその心を広げて住します。 彼は、慈悲が豊かで、崇高で、無量の慈悲の心を持ち、敵意、悪意がなく、周囲の全てのものにその心を広げて住します。

彼はそこに喜びを見出します、それを望ましいことと理解します、それに自分の幸福を期待します。 常に断固として、その境地に住し、もしその境地を失うこと無く彼が死ぬなら、彼は位の高い神々の境地に生まれ変わります。

位の高い神々の境遇での一劫年の寿命があります。 普通の人々(八正道を得ていない人々)は、そこに生涯留まります。 けれども、神々として寿命を全うした後は、そこを去り、(過去の行いに応じて)地獄道畜生道、餓鬼道に行くかも知れません。 しかし、世尊の言葉を聴く者は、(天界で)神々として寿命を全うした後は、最終的には、同じ神々の欲と怒りと無知を完全なる消滅に至ります。

これが、(聖なる道を得ることによって)智慧のある聞き手が、智慧のない普通の人から授けられる区別、違いです。すなわち転生の終着地の違いです(しかし阿羅漢は死後、生が完全に終わります)。

15. 増支部経典 4:126 より (ブッダの言葉)

ここに、比丘たちよ、ある者が慈悲で心を染め、一方向、二番目の方向にも、三番目の方向にも、四番目の方向にも、上にも、下にも、周囲にも、そして、どこでも、あたかも自分に対してのように、全てにその心を広げて住します。

(瞑想の状態の間)どんな、色、受(心地よいもの、不快なもの、どちらでもないもの)、想、行、識であろうと、彼はそれを無常で、苦となるもので、病であり、害であり、刺であり、不幸であり、苦しみであり、侵入者であり、無くなるものであり、実体がなく、自我がないと見なします。 身体が滅び、死後、彼は(不還果の者として)清浄な神々の境地に転生します(そこは、聖道を得て、欲・怒り・無知を消滅させ、少なくとも七回までこの世に転生する境地に達した者だけの場所です)。 この類の転生は(八正道に達していない)普通の人々には与えられません。

阿羅漢

16. 増支部経典 3:66 より (阿羅漢ナンダカ尊者の言葉)

このように私は聞きました。 ある時、ナンダカ尊者はサーワッティにあるミガラの母親の宮殿の東の寺院に住んでおられました。 ミガラの孫サールハとペークニヤの孫ローハナはナンダカ尊者のところに行き、挨拶をして脇に腰を下ろしました。 そうした後、ナンダカ尊者はミガラの孫サールハに話されました:

「さあ、サールハよ、風評であるから、伝統的にそうであるから、伝説として伝わっているから、経典に書かれているから、推量から、論理的な推察であるから、証拠から考察したから、好ましいから、熟考した結果であるから、他の誰かに能力があるから、『この比丘は私達の師であるから』と考えて満足しないでください。 あなたが『このことは役に立たない、非難に値する、賢者に批判される、取り入れて努力を費やせば害と苦しみを呼ぶ』と考えるならば、それらを捨てなさい。 あなたはどう思いますか。貪欲がありますか」。 — 「はい、あります、師よ」。 — 「異常な欲がその意味と私は言います。 貪欲によって、欲深い人は生きるものを殺します、与えられていないものを取ります、邪淫を犯します、嘘をつきます、その他同様のことをします。 彼の悩み、苦しみは長くつづくでしょうか」。 — 「はい、その通りです、師よ」。 — 「あなたはどう思いますか、怒りはありますか」。 — 「はい、あります、師よ」。 — 「悪意がその意味だと、私は言います。 怒りによって、悪意ある人は生きるものを殺します、与えられていないものを取ります、邪淫を犯します、嘘をつきます、その他同様のことをします。 彼の悩み、苦しみは長くつづくでしょうか」。 — 「はい、その通りです、師よ」。 — 「あなたはどう思いますか、妄想はありますか」。 — 「はい、あります、師よ」。 — 「無知がその意味だと、私は言います。 無知によって、妄想する人は生きるものを殺します、与えられていないものを取ります、邪淫を犯します、嘘をつきます、その他同様のことをします。 彼の悩み、苦しみは長くつづくでしょうか」。 — 「はい、その通りです、師よ」。

「あなたはどう思いますか。 それらのことは、有益でしょうが、それとも無駄でしょうか」。 — 「無駄なことです、師よ」。 — 「非難されるべきことでしょうか、それとも非難されないものでしょうか」。 — 「非難されるべきことです、師よ」。 — 「賢者に非難されることでしょうか、それとも賞賛されることでしょうか」。 — 「賢者に非難されることです」。 — 「それらを取り入れ、努力を費やすと、それらは悩み、苦しみを呼びますか、それとも呼びませんか、それともこの場合はどうなりますか」。 — 「それらを取り入れ、努力を費やすと、それらは悩み、苦しみを呼びます。この場合はそのようになります、師よ」。 — 「これが、私が『さあ、サールハよ、風評であるから、伝統的にそうであるから、伝説として伝わっているから、経典に書かれているから、推量から、論理的な推察であるから、証拠から考察したから、好ましいから、熟考した結果であるから、他の誰かに能力があるから、『この比丘は私達の師であるから』と考えて満足しないでください。 あなたが『このことは役に立たない、非難に値する、賢者に批判される、取り入れて努力を費やせば害と苦しみを呼ぶ』と考えるならば、それらを捨てなさい。』と言った理由です」

「さあ、サールハよ、風評であるから、伝統的にそうであるから、伝説として伝わっているから、経典に書かれているから、推量から、論理的な推察であるから、証拠から考察したから、好ましいから、熟考した結果であるから、他の誰かに能力があるから、『この比丘は私達の師であるから』と考えて満足しないでください。 あなたが『このことは役に立つ、賞賛に値する、賢者に賞賛される、取り入れて努力を費やせば幸せと満足を呼ぶ』と考えるならば、それらを実践し、それらに住しなさい。 あなたはどう思いますか。不貪がありますか」。 — 「はい、あります、師よ」。 — 「異常な欲が無いことがその意味と私は言います。 不貪によって、欲の無い人は生きるものを殺すことをしません、与えられていないものを取りません、邪淫を犯しません、嘘をつきません、その他同様のことをしません。 彼の幸せ、満足は長くつづくでしょうか」。 — 「はい、その通りです、師よ」。 「あなたはどう思いますか、不瞋はありますか」。 — 「はい、あります、師よ」。 — 「悪意の無いことがその意味だと、私は言います。 不瞋によって、悪意の無い人は生きるものを殺しません、与えられていないものを取りません、邪淫を犯しません、嘘をつきません、その他同様のことをしません。 彼の幸せ、満足は長くつづくでしょうか」。 — 「はい、その通りです、師よ」。 — 「あなたはどう思いますか、不痴はありますか」。 — 「はい、あります、師よ」。 — 「智慧がその意味だと、私は言います。 不痴によって、智慧がある人は生きるものを殺しません、与えられていないものを取りません、邪淫を犯しません、嘘をつきません、その他同様のことをしません。 彼の幸せ、満足は長くつづくでしょうか」。 — 「はい、その通りです、師よ」。

「あなたはどう思いますか。 それらのことは、有益でしょうが、それとも無駄でしょうか」。 — 「有益なことです、師よ」。 — 「非難されるべきことでしょうか、それとも非難されないものでしょうか」。 — 「非難されないことです、師よ」。 — 「賢者に非難されることでしょうか、それとも賞賛されることでしょうか」。 — 「賢者に賞賛されることです」。 — 「それらを取り入れ、努力を費やすと、それらは幸せ、満足を呼びますか、それとも呼びませんか、それともこの場合はどうなりますか」。 — 「それらを取り入れ、努力を費やすと、それらは幸せ、満足を呼びます。この場合はそのようになります、師よ」。 — 「これが、私が『さあ、サールハよ、風評であるから、伝統的にそうであるから、伝説として伝わっているから、経典に書かれているから、推量から、論理的な推察であるから、証拠から考察したから、好ましいから、熟考した結果であるから、他の誰かに能力があるから、『この比丘は私達の師であるから』と考えて満足しないでください。 あなたが『このことは役に立つ、賞賛に値する、賢者に賞賛される、取り入れて努力を費やせば幸せと満足を呼ぶ』と考えるならば、それらを実践し、それらに住しなさい』と言った理由です」

「高い境地にいる(聖なる道に到達した)仏弟子、彼はこのように貪瞋痴を滅し、慈しみで心を染め、一方向、二番目の方向にも、三番目の方向にも、四番目の方向にも、上にも、下にも、周囲にも、そして、どこでも、あたかも自分に対してのように、全てにその心を広げて住します。 彼は、豊かで、崇高で、無量の慈しみの心を持ち、敵意、悪意がなく、周囲の全てのものにその心を広げて住します。 彼は憐れみで...他の喜びを喜ぶ心で...平静に接する心で... 心を染め、一方向、二番目の方向にも、三番目の方向にも、四番目の方向にも、上にも、下にも、周囲にも、そして、どこでも、あたかも自分に対してのように、全てにその心を広げて住します。 ここで、彼はこの瞑想の状態をこのように理解します:「これが(流れに入った者である私に生じた神々の境地)です。 滅したもの(流れに入ることで捨てられた貪瞋痴)があります。 最上のゴール(阿羅漢果)があります。 この感覚の原野からの究極の脱出である」と。

このように知り、理解する時、彼の心は感覚の欲望の汚れ、存在の汚れ、無知の汚れから自由になります。 (阿羅漢果に達することで)解脱する時、解脱の智慧があります。 生は尽きました、神々としての生は終わりました、やるべきことはやりました、もうやることはありません、と。 彼はこのように理解します: 『以前は欲があり、これは悪いことで、今はなくなり、これは善いことです。以前は怒りがあり、これは悪いことで、今はなくなり、これは善いことです。以前は無知があり、これは悪いことで、今はなくなり、これは善いことです』と。 こうして、まさに今生でもはや彼は(渇愛の熱、貪瞋痴の炎を)消し、冷まして、渇くことはありません。 無上の喜びを経験し、(残りの寿命を)自身の中の神々のような清らかさに住します」。

Publisher's note

The Buddhist Publication Society is an approved charity dedicated to making known the Teaching of the Buddha, which has a vital message for people of all creeds.

Founded in 1958, the BPS has published a wide variety of books and booklets covering a great range of topics. Its publications include accurate annotated translations of the Buddha's discourses, standard reference works, as well as original contemporary expositions of Buddhist thought and practice. These works present Buddhism as it truly is — a dynamic force which has influenced receptive minds for the past 2500 years and is still as relevant today as it was when it first arose.

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P.O. Box 61
54, Sangharaja Mawatha
Kandy, Sri Lanka

(日本語訳)

Buddhist Publication Society は、ブッダの教えを広めるための公認の慈善事業です。ブッダの教えは全ての宗教の人々にとって重要なメッセージを含んでいます。

BPSは1958年に設立され、以来幅広い話題にわたる数々の書籍、小冊子を出版してきました。 出版物は、注釈がついたブッダの教えの正確な翻訳、標準的な参考書、仏教の考え方と実践の現代的な解説書を含んでいます。 これらの著作は、まさに仏教の正しい姿を表現しています。それは、過去2500年間にわたって感受性の強い心に影響を与え続けきた力強い力であり、仏教が最初に起こった時と同様に、現代でも色褪せないものです。


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The Wheel Publication No. 7 (Kandy: Buddhist Publication Society, 1987). Transcribed from the print edition in 1994 under the auspices of the DharmaNet Dharma Book Transcription Project, with the kind permission of the Buddhist Publication Society. Last revised for Access to Insight on 30 November 2013.

(日本語訳) :
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The Wheel Publication No. 7 (Kandy: Buddhist Publication Society, 1987). Buddhist Publication Societyの寛大な許可のもと、DharmaNet Dharma Book Transcription Projectの援助によって1994年の印刷版から書き起こされました。 Access to Insight向けの最新の改訂は2013年11月30日になされました。


初出: Mon June 29 2015 12:34 (+0900)

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