「何にも必ず限度がある」 〜かやの木会館でのスマナサーラ長老月例法話メモ(2007年4月28日)
何にも必ず限度がある 〜「適度」を知って「快適」に生きる〜
常識ですが…
- 物事に限度があることは殆ど忘れて生活している
- (限度を超えると)取り返しのつかない問題が起こる
- 理性・落ち着きがなく感情中心で生きる→トラブルが起こる
- 限度を知って平安に生きる人→感情に勝った人・理性的な人
無常(anicca)
- Sabbe saṅkhāra aniccā : 「一切の行は無常です」
- saṅkhāra: 組み立てたもの、出来あがったもの、合成したもの、独立・自立して いないもの→だから壊れるもの
- 概念もつくったもの
- 音もつくたったもの
- saṅkhāraに対して「現象」という単語が使える
- 言い換えると「一切の現象は無常です」: 現れては、消えるもの
現象の特色
- paṭicca samuppannaṃ : 〜因縁により起こる〜
- khaya dhammaṃ, vaya dhammaṃ : 減る、老いる 「entropy」
- nirodha dhammaṃ: 〜滅する・無くなる
- viāga dhammaṃ : 厭離に値する、執着に値しない
- 物質だけではなくて、こころも無常
常住・永住論
- "諸行は無常ですが、行でないものは非無常ではないしょうか?"
- 「諸行無常」の単語を入れ換えただけ
- 単語を入れ換えて「遊んで」はいけない
- 例)
- 「りんごは果物です。」 〇
- 「果物はりんごです」 ×
- こういう「遊び」→ 行でないものを「考える」←"つくったもの" やはり諸行そのもの (論理が矛盾している)
- saṅkhāra に対してasaṅkhāra という概念はある
- asaṅkhāra は涅槃だけ
- saṅkhāraとasaṅkhāraをまとめて sabbe dhammā anattā「諸法無我」と説く
- 変わらない実体は無い
- 「一切皆空」と同じ意味
"無常には断固反対"
- 生命は無常を発見しようとしない
- 無常に遭遇すると、悩む・悲しむ・苦しむ
- 現象は変わることなく、常に在って欲しいと思う
- これらは論理ではなく、感情・気持ち
- 人間の希望は「如何に現象を変わらない状態に保つか」 → これは無理・不可能・失望するだ け
- 科学・医学も結局は人間に対して何もしていない
- 結局人間が死ぬのは変えられない
- 仏教以外は何も出来ない
- 科学・医学も結局は人間に対して何もしていない
因縁
- asmin sat idaṃ hoti, asmin asati idaṃ na hoti
「あれがあるとき、これがある。あれが無いとき、これが無い」 - 全ての現象は因と縁によって現われる
- 条件付きということ
- 独立・自立はできない
- これが、全てのものに限度があるということ
喩え
- 1000円で美味しいものが食べられる・楽しくなる
- でも1万円、10万円で10倍、100倍に美味しく(楽しく)なる訳ではない
- 材料は色々な原因のなかの一つに過ぎない
- 美味しさの原因: 味の感覚、胃袋の容量、消化能力、体力 … (たくさんある)
- 結果は全ての原因が調和するところ
- 一つの原因だけを増やしても、望む結果にはならない
- 俗世間では、一つの原因だけを探し(注目し)がち
早いか遅いか
- 人々はものごとの因縁を変えて、変化のスピードを変える
- 常に限度がある
- 現象を起こす因と条件(縁)の中で、いくばくかの柔軟性がある
- 例) 豆を普通の鍋で茹でるよりは、圧力鍋で茹でる方が早く茹であがる
- でも、茹で時間を3秒まで短くはできない←限度はある
因果法則は超えられない
- 新幹線・超音速飛行機・ロケット・宇宙線→ 因縁の範囲で働いている
- 長生きできても、死は避けられないし、完全無病にはできない
- (ブッダによれば空腹も「病気」)
- 「現われるものは、壊れる」は法則 → 人間の(無駄な)戦いは続く
- 人参を下げられたロバ状態
- ロバだけが疲れ果てて倒れる
- 戦う人間だけが疲れて死ぬ
- 人参を下げられたロバ状態
発展か後退か
- 「人は発展して進化していく」のか?
- 一面では発展している(はず)なのに、他面では後退しているのは何故か
- 人が行なっているのは「発展」ではない
- 常に変わる流れの変化の道を「少々」変えることに過ぎない
- つまり発展ではなく、「変化」
手を加えて危険を招く
- 自然の流れ・世の中の変化(地震・火山の噴火・地球の自転など): 安全でもない・危険でもない・幸福でも ない・不幸でもない
- 人が手を加える→ 流れが少々変わる
- → 危険という現象が現われる
- 例) ウランも人の手に渡らなければ何の危険もない
危険が生じる原因
- 危険も因縁で生じる
- こころには希望・願望・好み→ 感情がある(欲望・願望)
- 人が経験するものごとは変わるもの
- 好きなもの→なくなる
- 嫌いなもの→現われる
- 自ずと手を加えたくなる
- しかし、因果法則を知り尽くしていない
- → 失敗が大量で、成功は少量
- これを「発展」と言えるのか
- 「1000万円費やして、100円儲けた」ようなもの
限度を超えると「神頼み」
地雷を踏まない
- 科学・経済・政治・家族、人の生き方・精神・こころ
- 原因を弄って流れを変えても良いが、因縁を変えられる範囲にはリミットがあることに注意
- 世界も己も手に負えない状態にまで弄らないこと
"無知と感情は問題"
危険なのは自然ではない。こころの無知と感情が問題。メスを入れるべきなのはここ。
諸悪莫作
- 一切の罪を犯さないこと、善を行うこと、こころを清らかにすること、これが諸仏の教えです。
- 人は物質ばかりを変える無駄な努力をしている
- 無知なこころ、汚れたこころで、物事を変えようとしてはいけない
- 俗世間の生き方: 危険、苦しみをずっと保つ生き方
限度がないもの
- なににも限度があるはずなのに、こころの欲望・願望・期待は無量
- こころが汚れていないならば、無量の願望でも構わないが、こころは極限まで汚れる
- だから、一切の欲望は危険
- 欲望・願望は破壊・苦しみへ進む; 成長・幸福には進まない
欲望が現れる原因
- 生きるとは 眼・耳・鼻・舌・身・意で色・音・香・味・触・法を認識するということ
- 色・音・香・味・触・法の情報→ 受vedanā が生まれる
- 受 vedanā → 苦・楽・不苦不楽 の感覚になる
- しかし、ものごとは無常でものごとは不完全
- 現われる感覚は物足りない→ 楽を作っても享受出来るまえに変わっていく
- 食べようと口に運んだソフトクリームが、舌に触れる前に地面に落ちるようなもの
- 渇愛が生じる
- それで、欲・希望・夢想・妄想が激流となる
- 一遍に大量の欲望は起きない。しかし、どんな瞬間にも欲望・不満足が生じるのは避けられな い
- 無明がない生命・渇愛がない生命・欲望/願望がない生命は成り立たない
- これも因果法則
命の限度(肉体)
- 身体を持って生まれる
- 肉体のリミットで認識の範囲が定まってしまう
- 例) 仲が良くても犬と人は会話はできない(犬は言葉は認識できない)
命の限度(業)
- 肉体: 厳しい制限があるもの・業がつくったもの
- 眼・耳・鼻・舌・身でどの程度の刺激を受けられるか、賞味期限、保証期間などの制限は業で 定められる
- これらの制限は遡って変えることは出来ない
楽しめる限度
- 人には一生で眼(・耳・鼻・舌・身)を介して楽しめる(享受)量には限度がある→回数券のよう なもの
- 一人ひとりでその量は異なる
- 寿命が尽きる前に享受の量を尽くしてしまうと、人生は手に負えない、暴走して破壊になる
- 寿命を全うすることが出来なくなる
- 寿命を全うするには、丁寧に刺激享受の回数券を使うこと
賞味期限
- 眼・耳・鼻・舌・身は使用しなくても、寿命とともみ衰える
- 若い時に苦労しても、老後は贅沢出来ない
- 昔やりたくて出来なかったことは、今もやらないほうが安全
調和
- 眼・耳・鼻・舌・身を使い過ぎる人はいる
- 使い過ぎる部品は、限度を超えると壊れる
- あまり使っていない部品が健康という訳ではない
- 全ては互いに協力しあって生きている (一つの使い過ぎは、他にも影響する)
- 身体の器官の一つが壊れれば、道連れで他も壊れて死ぬ
"中道を歩む"
交通ルールに従って、制限速度を保って人生を運転する
使い切るもの
- 体力・能力: 成長・向上させたい時は使い切る方が良い
- 勉強: 怠けることなく限度まで努力するもの
- 体力・能力などは伸びていく
- 能力の限界を超えようとすると、因縁は自分の管理から離れて暴走してしまう
使い切ってはならないもの
- 食べること・音楽を聴くこと・眼を楽しませること・その他楽しむこと
- 使い切らない方が正しい
- 楽しめる量が決まっているので、早く使い切ると後は生きていけなくなる
- 思考する時でも、リミットを超えると狂う
- 死ぬ時でも幾らかの残りがあった方が良い (寝た切りや植物状態で死ぬことはない)
- 「身体には賞味期限があるなら、使い切るほうが良いのでは?」→ 違う!
- 刺激に執着する・依存する・快楽に酔う → 必ずリミットを超える
- 短命になるか、病弱になるか、重荷になった生き方になるか
命の節約と投資
- 理性のある人は、節約しつつ、投資もする
- 五根に対して「腹八分」の生き方をする
- 投資:
- 快楽のため・楽しみのために罪を犯さないこと
- 善行為をすること
- 一日一善でも良いから、何かの善行為を投資しなければならない (これが命を大事にすること)
- 恵まれない生れでも日々善行為を投資すると、今の業も花開く
- 慈しみの念と行為: 殆ど全ての善行為が含まれる・最大の投資
- サマーディ瞑想: こころの投資
- 観察(vipassana)瞑想: 智慧の投資
- 智慧のある人は輪廻しても、いつでもリーダー的な存在
- 智慧は苦しみ(輪廻)を脱出するための梯子
サラ金で生きる人
- 罪を犯す人・善行為をしない人は業の残高を全部おろす
- 日々、借金が増える生き方
- 善業の借りはこの上ない危険
- この世で罰を受けたり、不幸に生まれたりする
- 借りたものを返さない限り、幸福な生まれは出来ない
こころの限度
- 俗世間では貪瞋痴のこころで、能力開発・知識を増やす努力をしている
- 貪瞋痴はこころが伸びる障碍
- ガムシャラに頑張ってもたいして成長しない
- 努力が限度を超えると、暴走・壊れる
- 罪を犯すひとと同じ結果になる
こころの限度は不可思議
- 貪瞋痴という不純物を睡眠状態にして、こころを伸ばすなら、人間には想像出来ないほどにこ ころが伸びる
- 神通力などの超能力は非論理的な物語ではない
- 物質的な対象に依存しつつこころが伸びる状態は色界禅定は四つある
- 第一禅定でさえも俗世間のレベルを超える
- 物質に依存することから解法されると、こころは更に伸びる
- 無辺・無限という概念をその時初めて経験出来る
- 無色界禅定は三段階
- 空無辺
- 識無辺
- 無所有
- 最終的に非想-非非想という禅定に達っする(これがこころの限度)
こころの限度(非認識)
- 感情的に生きることを嫌がる・好まない人が瞑想して色界の第四禅定まで達する → その人のこころは死後長い時間停止してしまう
- 仏教では、この瞑想を禁止している
- 「嫌がる・好まない」は感情。感情で生きるのは間違い
- 好きとか嫌いとかを乗り越えることが大事
こころの限度(解脱)
- 仏説(真理)を理解し瞑想する人は、八禅定の過程で現象無常か、苦か、無我を観察して生に対 する執着をなくす
- 自然になくなる
- これが解脱
- こころの成長は「限度」ではなくて、「終了」
"こころを育てましょう"
こころを育てるべき
- こころ: 宇宙さえ支配できるもの←でも俗世間は分かっていない
- 肉体を育てようとして苦しんでいる
- 朽ちていく、こころを閉じ込める肉体を心配することを控えて
- こころに自分の力を発揮できるチャンスを与えるべき
メモをもとにしていますので、不正確な箇所があると思います。