hohi’s blog

初期仏教の勉強・実践とパーリ語の学習

自分が「極端」なのを、あなたは知らない 〜スマナサーラ長老法話メモ(2009年11月06日 - オリンピック記念青少年総合センター)

〜「中道」の安楽を実現するために〜

(イントロダクション)

全てはデジタル

  • 物質(地(土))・水・火・風)とは生滅という「波」の流れです
  • 仏典ではこの生と滅の間に「住」という瞬間を入れてはいますが、波であることには変わりはありません
    • 科学では「生まれては消える」という概念はありません
  • 心も同じ→消えることは実感出来ない・分からない
    • 10分前の心と今の心は違うことは知っている・泣いている時の心と笑っている時の心が違うことは知っている
    • このように、ものすごく心が変わっている
    • 変わるためには前の心は消えなくてはならない
    • この消えるところが分からない→ 我々の弱み
    • この世の中は「弱みを無くそう」ではなく「上手く使っていろいろなことをやっている」
  • 物質を知る私達に知ることが出来るのは〇〇が「あるか」「ないか」です

実態論のはじまり

  • 「無い」は知り得ない (有ることは知ることが出来る)
  • データが無いと、心に入っても無反応・何の反応もない・認識は起こらない
  • データが「住」の瞬間で「ある」と認識します。
    • 音があるなら「ある」と知る
    • 音が無いならば「無い」と知ることは出来ない
  • ですから、知識は全て「ある」の連続です
    • 椅子を見て「椅子がある」
    • 椅子を見て「人がいない」とは考えられるが、認識は出来ない
    • 「ずーっと人がいるはず」という固定概念→ ドアを開けると固定概念が破られる
      (前に「正しい」と思い込んだことが「正しくない」と分かった— 無いことを認識した訳ではない・不安になる)
    • 聴覚に音がぶつからないと認識しない
    • 五感に情報がぶつからないと認識しない
  • 無は引き算です・それも「有」です
    • 「椅子」+ 「人」 - 「人」 = 「椅子」 (人がいない) → 推測にすぎない
  • ですから、『ものがある』『こころがある』『魂がある』『神がいる』『私がいる』『他人がいる』などのテーゼは理解する のです
  • 『在る・有る』の哲学で生きている
  • 『在る』とされているものに愛着も憎しみも起こるのです
    • 仏教が語る煩悩は『有る』という問題から生まれる
    • 見栄を張る」のも「自分がいる」「相手がいる」から
    • 物質のステップ:「生まれる」・「住」・「消える」の三つのステップのうちの一つのステップ「住」しか知らない
    • 喩えるなら「動物を見ても、見ているのは顔だけ、尾だけ、胴体だけ」のようなもの
    • 人間は『〜がある』『〜がいる』と邪見に徹している
    • いくら仏教の話を聞いても「無我」なんて理解できるわけではない
      • 頭だけで理解しようとする方々の理屈:『ブッダ五蘊が無我と説いだが、我が無いとは言っていない』
      • ↑屁理屈: 「ブッダには「我が無い」とは言えません。無いものに『〜(主語))が』とは言えないのだから。」
    • 生まれつきの仏教徒でも実態論にしがみついている
    • 生命は、根本的に『ある』という前提で生きている
  • 無は「マイナス」なので、また怒り・欲などの感情の種になるのです
    • 「金が無い」は『あるはずの金が無い』から『悲しい』
    • 「有る」と認識してもずっと心が汚れる
    • 「無い」と認識してもずっと心が汚れる

カメラのフィルム(喩え)

  • フィルムは光に反応して変化を起こる
  • 暗闇で撮った写真は現像すると透明のフィルムになる
  • プリントすると黒い四角になる
  • 認識するためには、こころには実在するデータの刺激が必要です
    • なぜ我々の心は妄想で激しいのか→ データを埋めつくすため・自分でデータの刺激を作り出す
  • もしもデータが無かった場合は「真っ黒」を認識するでしょう
  • こころは不安・混乱に陥いる(こころが暴れる)
    • → 我々は決っして「ない」ことを認識しようとしない

宗教と哲学

  • 宗教は「在る・有」の話です
  • 無は不安と混乱を招くので「有」のみだと人々を安定させようとするのです
  • 永遠・不死・天国・地獄などの話は宗教の前提です
  • ほとんどの哲学も「有」の管轄です
  • 「無」を中心にする思考は少ないのです
  • その無も結局は現実の否定のみ
    • 「無」を知ている訳ではない。あるものを否定するだけ
    • 「有る」だったら執着しない
    • なくなるものに執着する(『無くなったら大変だ!』)

有と無の問題点

  • 現象を「有」ととるとまずその人は「無知」です
  • 現象に対して執着か、嫌悪、怒りなどが生まれる(こころが汚れる)
  • 『有は常に有であって、無にはならない』のです
  • ですから『悪人は本質的に悪人で変わらない』のです→ その人に終身的な判断を行なう
  • 極限論者→ 邪見者
  • 『道徳・倫理・意思で行う行為によって状況は変わるはずはない』のです
  • したがって有論者には『道徳・倫理は成り立たない』救われないのです
  • 無の思考者は存在を否定する傾向
  • 人が有るとするものは無いというだけで、無を認識している訳ではない
  • この場合も『道徳・倫理は成り立たない』
  • 苦しんでいる生命に救いはない

(Digital Brain)デジタルの脳

  • 有で昨日・反応する、無でストップになる脳
  • ストップはあり得ないので、無の時は勝手に有の世界を幻像する
  • しかし、脳・こころは価値観を持っている(物質にはない)
  • それは感情ということです
  • ですからこころは、だらしない・曖昧・不安なものであり、yes/noがなく、浮いている状態です

有と無の問題の解決

ブッダが語られた「中道」〜

有と無をまず知る

  • 心に刺激が触れる
  • それなりの「有」があると知る
  • しかし、その情報は変わる・無くなる
  • それで、「かつて有った」、「今は無いと」いう法則で無を知る
    (x was in the past, but x is not present now.)
  • 「−(マイナス)有」は無です

−(マイナス)有のブッダの言葉

  • imasmiṃ sati idaṃ hoti. 「これがある時、これはある。」

  • Imasmiṃ asati, idaṃ na hoti. 「これがない時、これはない。」

  • Imass’ uppādā, idaṃ uppajjati. 「これが生じる時、これが生じる。」

  • Imassa nirodhā, idhaṃ nirujjhati. 「これ滅する時、これが滅する。」

縁起こそが仏説です

  • 有と言っても一時的で『有』にはならない
  • 無と言っても一時的で『無』にはならない
  • 因縁によって生じる、生じたものは因縁によって無くなる
  • 「有」の極論も、「無」の極論も超えて、ブッダは中正で真理を語る
    • 「真中」のことではない
  • 現象をユニットでとるのではなく、因果のセットでとるのです

なぜ縁起?

  • 縁起だから現象を変えられる
  • 執着したり、拒否したりする必要はない
  • 人の意思、道徳、行為は結果を出す
  • したがって仏教では「道徳は成り立ちます」
  • 解脱は可能です
  • 仏教は唯一の宗教です
    • 世界の宗教がインチキであるならば「唯一の宗教は仏教」

極論から極道(きょくどう)へ

  • 生命は思考で判断して生きているのです
  • 思考は有無の極端の一つの枠に入ります
  • したがって、我々の生き方も極道になっている
  • 人は何が善いか悪いかを明確に知らない
  • 有か無かで決めた極端的な生き方が、有と無の間で迷う半端な生き方になるのです

多衆の道

  • 多衆は「有」の檻にいます
  • 感覚器官も刺激を受けることに徹しています
  • 好む刺激も、好まない刺激もあるから、当然「好む刺激」のみを期待し、探し求め努力する
  • 快楽を求める道は世間の道
  • しかし、動物さえも快楽の道を歩むので、自慢にはならない
  • この道では、誰にも成長を期待できません
  • 刺激は満足に達する前に消える、常にこころは不満です
  • さらに刺激を求める悪循環に嵌ります
  • 全てが衰えるので、感覚器官も衰える
  • 満たさぬままで生命は死ぬ(すごい渇愛だけを残して死ぬ)
  • 快楽の道は渇愛が支配する
  • 怒り・嫉妬・憎しみなどがついてくる
  • 争い・差別・競争・殺し合いなどで人生の大半を追うのです
  • 快楽の道はブッダの言葉では hīno (卑しい), gammo (品格がない), pothujjaniko (多衆の道), anariyo (道徳がない), anatthasamhito (不幸を司る)

否定主義者の道

  • 極論者・「無」にこだわる人、快楽主義を否定する
  • 楽ではなく、敢えて苦を受ける
  • 『苦を求めることが、人が挑戦するべきだ』と思う
  • 『宗教の道・修行の道・幸福の道・目指すべき道とは苦行の道なのだ』と説く
  • この道をブッダはdukkho (苦しみ), anariyo (道徳がない), anatthasamhito (不幸を司る)のだと説かれる

大衆の考え

  • 大衆は快楽主義です
  • 快楽で絶望感に陥ったら『修行の道に未練を感じる』
  • 自分は行いたくはないが、苦行する人に魅力を感じることはある
  • 修行に反対だが、修行者が堕落していると批判することもある
  • その全ての場合も『修行は苦行に限る』と思っている
  • 俗世間では『修行は苦行に限る』とは定説です
    • 無論者は『修行・道は苦行である』と教えている
    • 快楽主義者は『修行は苦行である』と思っている
    • → 人間には道が分からない

中道

〜快楽行・苦行を超えた現実的な幸福の道〜

正しいとは

  • sammā「正」(perfect: 完全)という形容詞は仏道に欠かせない
  • 極端の両極も正しくない
  • 極端の真中も正しくない
  • どのような道を歩むべきか、とう正解があるはずです
  • 必ず「幸福」という結果を出すその道、超越道・中道は仏道(正道)なのです

正道のポイント

  • 有と無で彷徨う人の問題は「縁起・因縁を知らないこと」
  • 現象とは、「あるでもなく、ないでもなく、因縁によって一時的に成り立つ
  • したがって執着に値しない
  • これを発見するために、正見正思惟が必要
  • 道徳が成り立つ正語正業正命が必 要
  • 常識は、有・無の回転なので、常識を超えるために正精進正念が 必要
  • 徐々に成長して超越の境地に達するので正定が必要
  • 極端を捨てた完全な道という意味で仏教も仏道も常に「正」(完全)なのです

灰色の世界では困る

  • 子供は学ぶべきか、遊ぶべきか
  • 普通の答え: 適当に遊んで、よく学ぶべき
  • → 『適当』とはどのくらい? 『よく』とはどのくらい?
  • 正解は「こどもは、日々善い方向へ成長するように努めるべきです」
  • 人生は正解があるが、それを発見できないのは残念です

選択の渦巻

  • 我々は判断に困る・悩む
  • 何時でも選択肢は沢山ある
  • 悪い場合でも、良い場合でも、いくつかの選択で悩む
  • 一つを選んでも、『別のものを選んだ方が良かったのではないか』とまた悩む
  • この竜巻から脱出する方法はあるのでしょうか?
  • あります
  • 選択肢が沢山あるということは、一つも正解ではないということ
  • 良いところも、悪いところも混ぜているのです
    1. どちらを選んでも大したことではありません
    2. 出来るならば、ブッダが説かれた道を選ぶ(正道)

選び方

  • 俗世間では何を選んでも長所・短所があることを覚悟する
  • 捨てた選択を完全に忘れる
  • 選択の短所により生じる不幸に大して別の道を選んで対応する
  • 道徳の場合は選択の余地はありません
  • 全体的に人生を八正道のプログラムで生かす

メモを元にしているので、不正確な部分があります。(必ずしも長老がお示しになったパワーポイント の内容通りではありません。)

 

初出: Tue November 10 2009 22:56 (+0900)