Paticca-samuppādo — Anulomaṃ(因縁の教え—順観)
Paticca-samuppādo — Anulomaṃ (因縁の教え— 順観)
パーリ語
Avijjā-paccayā saṅkhārā, saṅkhāra-paccayā viññāṇaṃ, viññāṇa-paccayā nāma-rūpaṃ, nāma-rūpa-paccayā saḷāyatanaṃ, saḷāyatana-paccayā phasso, phassa-paccayā vedanā, vedanā-paccayā taṇhā, taṇhā-paccayā upādānaṃ, upādāna-paccayā bhavo, bhava-paccayā jāti, jāti-paccayā jarā-maraṇaṃ soka-parideva-dukkha-domanassupāyāsā sambhavanti: evametassa kevalassa dukkhakkhandhassa samudayo hotī ’ti.
Avijjā-paccayā saṅkhārā, saṅkhāra-paccayā viññāṇaṃ, viññāṇa-paccayā nāma-rūpaṃ, nāma-rūpa-paccayā saḷāyatanaṃ, saḷāyatana-paccayā phasso, phassa-paccayā vedanā, vedanā-paccayā taṇhā, taṇhā-paccayā upādānaṃ, upādāna-paccayā bhavo, bhava-paccayā jāti, jāti-paccayā jarā-maraṇaṃ soka-parideva-dukkha-domanassupāyāsā sambhavanti: evametassa kevalassa dukkhakkhandhassa samudayo hotī ’ti
avijjā-paccayā | : | avijjā (f.) 「無明」 + paccaya (m. abl. ) 「縁」 → 「無明に縁って」 |
saṅkhārā | : | saṅkhāra (m. pl. nom. ?) 「行」 → 「行が(ある・生じる)」 |
saṅkhāra-paccayā | : | saṅkhāra-paccayā → 「識に縁って」 |
viññāṇaṃ | : | viññāṇa (n. nom.) 「識」 → 「識が(ある・生じる)」 |
viññāṇa-paccayā | : | viññāṇa-paccayā → 「識に縁って」 |
nāma-rūpaṃ | : | nāma 「名」 rūpa (n. nom.) 「色」 → 「名色が(ある・生じる)」 |
nāma-rūpa-paccayā | : | nāma-rūpa-paccayā → 「名色に縁って」 |
saḷāyatanaṃ | : | saḷāyatana (n. nom.) 「六処」 → 「六処が(ある・生じる)」 |
saḷāyatana-paccayā | : | saḷāyatana-paccayā → 「六処に縁って」 |
phasso | : | phassa (m. nom.) 「触」 →「触が(ある・生じる)」 |
phassa-paccayā | : | phassa-paccayā → 「触に縁って」 |
vedanā | : | vedanā(f. nom.) 「受」 pain; sensation. → 「受が(ある・生じる)」 |
vedanā-paccayā | : | vedanā-paccayā → 「受に縁って」 |
taṇhā | : | (f. nom. ) 「渇愛」 craving; thirst; lust; attachment. → 「渇愛が(ある・生じる)」 |
taṇhā-paccayā | : | taṇhā-paccayā →「渇愛に縁って」 |
upādānaṃ | : | upādān (n. nom.) 「取・執着」 → 「取(執着)が(ある・生じる)」 |
upādāna-paccayā | : | upādāna-paccayā → 「取(執着)に縁って」 |
bhavo | : | bhava (m. nom.) 「有・存在」 → 「有(存在)が(ある・生じる)」 |
bhava-paccayā | : | bhava-paccayā → 「有(存在)に縁って」 |
jāti | : | (f. nom.) 「生・誕生」 birth; rebirth; race; nation; genealogy; asort of; a kind of. → 「生が(ある・生じる)」 |
jāti-paccayā | : | jāti-paccayā → 「生に縁って」 |
jarā-maraṇaṃ | : | jarā (f.) 「老」 -maraṇa (n. nom.) 「死」 → 「老い・死が」 |
soka-parideva-dukkha-domanassupāyāsā | : | soka (m.) 「憂い」 parideva (m.) 「悲しみ」dukkha (n.) 「苦しみ」 domanassa (n.) 「憂い悩み」+ upāyāsa (m. pl. nom.) 「悩み・絶望」 → |
sambhavanti: | : | sambhavati 「生じる・発生する」 (pres. pl. 3rd) → 「生じる」 |
evametassa | : | evaṃ 「かく(の如く)・このように」 + (e) tassa (so, taṃ : sg. dat. gen.) → |
kevalassa | : | kevala (a.) 「独一の、全部の、完全の」 → 「完全なる」 |
dukkhakkhandhassa | : | dukkha 「苦」+ (k)khandha (m. gen. dat.)「蘊」 → 「苦蘊の」 |
samudayo | : | samudaya (m. nom.) 「集・集起・生起・原因」 → |
hotī'ti | : | hoti + iti → |
日本語訳
無明に縁って行が生じます。行に縁って識が生じます。識に縁って名色が生じます。名色に縁って六処が生じます。六処に縁って触が生じます。触に縁って受が生じます。受に縁って渇愛が生じます。渇愛に縁って取(執着)が生じます。取(執着)に縁って有が生じます。有(存在)に縁って生が生じます。生によって老い・死、憂い・悲しみ・苦しみ・悩み・絶望が生じます。このように、これがすべての苦蘊の生起です。
リファレンス
- World Tipiṭaka Edition, Vinayapiṭaka, 3V Mahāvaggapāḷi, 1 Mahākhandhaka
- 日本テーラワーダ仏教協会の礼拝文
- Mahāsi長老の解説 (A Discourse on Dependent Origination)
上記の日本語訳につい ては著作権は放棄します。御自由にお使い下さい(編集・改変・ソフトウェアに組込むなど)。ただし 日本語訳についての質・内容は保証しませんし、この訳をご利用になる上で生じるいかなる不都合に 対して、上の日本語訳の作者は責任を負いません。
訳が拙い・不適切なところがあるかも知れません。御指摘頂けるならば幸いです。
初出: Mon July 18 2011 22:55 (+0900)
〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜
騙されない生き方 〜スマナサーラ長老法話メモ(2011年4月23日 — オリンピック記念青少年総合センター)
〜嘘に踊らされず、疑心暗鬼にもならない方法〜
- 騙されたくはない?
- なぜ他人を騙す?
- 自利・他利
- 「自利」は本能です
- 自利と自我愛
- 自我愛から自己愛へ
- 自己愛へ進む
- 自我愛の矛盾
- 自分好き
- 無駄な批判
- 騙されて損する
- 限りのない騙しのテクニック
- 騙しのプロ — 宗教
- 騙しのプロ — 政治家
- 騙しのプロ — 大企業
- 騙しのプロ — 科学者
- 正直の人の発見
- 煩悩があるから騙される
- 疑心暗鬼
- 騙せないようにする技
- ブッダが説く信仰から身を守る技
- 理性に基づいて自分が決める
- 騙されない・騙せいない人
騙されたくはない?
- 当然な気持ちのようです
- しかし、あなたは他人を騙していないですか?
- 人とは他人を騙すプロなのです
- 動物さえも他を騙すことにチャレンジする
- カモフラージュ: 身を守るため ← 悪いこととは言いづらい
- もし、他人が騙すことしかしないならば、『私は騙されていない、気を付けている』とは言えないはず
- 「平和」「協調」← 騙す方と騙される方とが合えば成り立つ: 上手く行けば「平和」と言う
- 皆(どの生命も)、騙されている
なぜ他人を騙す?
- 自分の利益のためです(『利益 = 金だけ』ではない)
- 他を騙すことが自分にとって有意義だと思っている
- ですから、意図的にも、無意識的にも、人は他を騙し続ける
- 自分の利益のみをかんがえることはエゴであり自我
- したがって自我意識があるかぎり、人は信頼できない
自利・他利
- 自利: 自分の利益を考えること
- 自利という単語を使うことさえしない
- 誇らしげに『利他』を謳う
- これはとんでもない「騙し」
- 人(生命)には、自分の利益しか考えられない: これが厳しい真理
- 自分の利益になるならば、他人のことも考えてみる事もするが、それほど上手くは行かない
「自利」は本能です
- 自利意識を心から取り除くことはほとんど不可能
- だから白黒のラベルを貼っても意味がない
- 他人のために受難することを謳っている人に気を付ければ良いだけの話
- それから「自利」とはどのようなものかと学ぶことです
自利と自我愛
- 生命に自我愛があります
- 「死にたくはない」という感情は自我愛を表している
- 自我愛には知識・理性・判断も要らない
- これは感情(煩悩)
- だから無知に支配されている
- 自我愛は暴走して自利ではなく、自害を招くがそれには気がつかない
自我愛から自己愛へ
- 自我愛を理性で観察して自己愛へ成長させるのです
- 自我と自己
- 自我: 感情・無知
- 自己: 理性
- 意味は分かっていないが、「生かされている」という言葉がよく使われています
- 曖昧は妄想のタネです: 妄想は自己破壊
- ろうそくの炎に独立することは出来無い
- 因縁によって支えられて成り立っている
- 命も独立できない
- 因縁によって「生かされている命」と言うべき
自己愛へ進む
- 「実体として独立した命は成り立たない」と理解すれば自我の錯覚が消える
- それで自我愛が「自分に有意義な生き方」に変わる
- 自己を支える原因逹に役立つ態度・生き方をすると、自ずから自分も守られること・自分に有意義になることが見えてくる (生かされている環境を守ることが自分のため)
- この人は田を騙さない・騙せない
自我愛の矛盾
- Saṃyuttanikāya Kosalasaṃyutta Piyasutta
- コーサラ王: 「自分を大好きだと言っていても、身口意で悪行為をする人は、自分自身の敵なのです。その人々は言っている事と反対のことをやっているのです。
- お釈迦様も、この自己愛の矛盾についての感想をお認めになった
自分好き
-
“Sabbā disā anuparigamma cetasā,
Nevajjhagā piyataramattanā kvaci;
Evaṃ piyo puthu attā paresaṃ,
Tasmā na hiṃse paramattakāmo”ti. - 四方八方どこを調べても、自分に勝る好きには人は見えず。生命にはそれほど自己が好きなもの。自己を愛するものは他を害してはならない。
無駄な批判
- あの人、この人、政治家が、世界が、人を騙している、嘘をついている、などを勝手に言ってもそれは無意味な行為
- 世界は直せないもの
- 自分も他を騙しているでしょうに
- 世の人間は他人を批判することで聖者かぶりをする
- 自分が他を騙すことを止めれば良い
騙されて損する
- 相手が利益を求めて騙すので、損をするのは当たり前
- しかし、何故だまされるのでしょうか?
- 人の話にのったところでで自分が得するという錯覚があったから
- 自分の利益に目が眩んで脚間性を失ったから
- 騙すのは世の仕事、騙されないのは自分の仕事・責任
限りのない騙しのテクニック
- 生命の出現から、人は騙すことをやってきた
- だから、騙しのテクニックは個人の安全対策を遥かに超えている
- 騙されないようにすることは、極限に難しい
- 先に言えば、あるいは、繰り返し言えば、嘘も事実になるという話がある
- 事実になるのではなく、みんな、まんまと騙されただけのこと
騙しのプロ — 宗教
- 神、超能力、奇跡、預言、神の邪な行為で子どもを作った、「俺にすがらないと救われない」「この神に従うと地獄行き」、神の力で病気を治す、商売繁盛、希望・願望を叶えてみせる
- みんな大事な話だから、(ずっとそう話続けたから)事実だから一斉にノリましょう
- しかし、得をするのは宗教家だけ
- ブッダは学問的に観ても偉大なる人物です、歴史的な人物です
- その教えは、事実に合っているか否かを調べる権利・自由を与えて、事実のみ・人の役に立つことのみを語ったのです
- 二度と生まれ変わらないので、私たちからの何の利益も期待しなかった
- しかし、摩可不思議なブッダが生まれ変わっている!では信じましょう!
- 神が奇跡を起こして何億もいる人々の中で、たった一人を病気から治す←本当かどうか確かめる方法はない
- 科学的に事実になるためには、繰り返すことが必要ですが、神の奇跡は二度と繰り返すことがないので、みな揃って信じるのです
- 唱えたら煩悩がなくなる、覚りに達する呪文もある。お金を払って学びましょう
- 呪文の言葉に意味がないことは、ありがたいね〜
騙しのプロ — 政治家
- 『命をかけて国民のために頑張る』
- しかし、国民はいつでも今のまま
- 『国民の意見をよく聴いて、それに従って政治をする』
- 国民は皆、自分が統治しているような気分
- 選挙制度がなくなると、それら美しい言葉は聞けない
騙しのプロ — 大企業
- 商売の世界は明らかに自分の利益で動きます。騙していない
- しかし、『作る・開発する品物は世界一、何の欠陥もない、何の害もない代物ばかり』
- 消費者が買う気にならない場合は、派手に宣伝してマインド・コントロール
- 『そこまでして助けたい』
騙しのプロ — 科学者
- 科学の世界は、事実を発見する。しかし、まもなく別の科学者がその事実を訂正する
- 今、事実だと信じている科学は嘘でしたということになる
- 『天文学的なお金を使って宇宙開発・武器開発などをしているのは、本当に人類のためになります!』
- 『科学者も権力者も、ロマンのため・権力のためではありません。信じましょう!』
正直の人の発見
- 親は子を騙す。子も負けないで親を騙す
- 友人同士でも、利益が絡んだら裏切ってもそれほど悪くなさそうです
- 可愛い人を自分の所有物にするために、命よりも愛してあげます。本当の事なので、女性の方々はこれを信じなくてはバチがあたります
- 結局は、人を騙せない人がいるということはありえない話です
- 世の中どこをみても騙されているのです
- 触れたものを金にしてくれる『賢者の石』に似ている
- それは生命の自我愛の問題
- 度を超えた騙しは断言罪ですが、完全に無くすためには世の道ではなく、ブッダの語られた中道を実践することです
煩悩があるから騙される
- 死にたくはないとアホなことを考える、程度を超えた欲深い人は『〇〇を信じたならば死後、永遠の天国だ』という話に乗ってしまう
- しかし、死なないと天国に行けないのがオチです
- 永遠の天国を信じる人は何故一斉に自殺することを考えないのでしょうか
- 子どもが病気になったら母親は神に頼む
- 金が欲しい、権力が欲しい、性欲を満たしたい、結婚したい、将来が不安、などの束縛があると必ず誰かのカモになる
- 1510の煩悩があるから、それぐらい騙される引っ掛けを持っているのだと思ったほうが良い
- ですから、煩悩を制御する生き方は騙されないための安全装置になります
疑心暗鬼
- ここまでの話は疑心暗鬼を応援したことになる
- しかし違います: 疑心暗鬼になるのは「信じていたのに…」という無知な人
- 疑心暗鬼は無知の証拠
- 覚りが達していない生命は初めから信頼に値しない
- 自分には自分のことも信頼できないのです
- 自分のことさえ信頼できない身分なのだと思って落ち着いてしまいましょう
- 人の話に乗るか乗らないかを自分で判断しましょう
- 騙されたのも、乗ると決めた自分のせい。相手を恨むのは筋違い
- 『私も試してみました。この薬は効きます』
- 『神の手を持っている医者がいます。紹介してあげます。』
- 『納豆を食べるとガンは治ります』
- どういたしますか?
- この人々は全知全能ではありません。信じ込んでいるだけです。
- ただ、理性がなくても、「〜かもしれない」という言葉を加えないという間違いを犯している。許してあげてください
- (参考) saccānurakkhanā
騙せないようにする技
- 相手のことを慈しむ
- 人のことを真面目に心配する気持ちになる
- 自分の利益より、相手の利益を先に考える
- 自分の利益で話しているなら、その旨を正直に相手に知らせて「お願いします」をする
- 自分が信頼できる人間になっていく過程で、他人が自分を騙すことができなくなる
ブッダが説く信仰から身を守る技
- kālāma族の街を釈尊が訪ねます ( Aṅguttaranikāya Tikanipātapāḷi 2 Dutiyapaṇṇāsaka 2.2 Mahāvagga )
- 「宗教家が自説のみ正しく、他説は全て偽りだというが、皆の話を総合すると偽りとなります。私たちは宗教の話に疑問を持っています」と宗教を信仰する気持ちがないことを釈尊に告げます
- 釈尊「理性のある君達の態度は正しい」と褒めて、理性を保つ方法を教えます。
理性に基づいて自分が決める
- mā anussavena : 言い伝えだから(聖典だから)
- mā paramparāya : 伝統だから
- mā itikirāya: 皆言っているから
- mā piṭakasampadānena: テキストにあるから
- mā takkahetu: 理屈は通っているから
- mā nayahetu: 〇〇理論にあっているから
- mā ākāraparivitakkena: 話し方をみると一貫性があるから
- mā diṭṭhinijjhānakkhantiyā: 自分の考え方、信仰にあっているから
- mā bhabbarūpatāya: それもありうる話だから
- mā samaṇo no garūti: 釈尊のことを尊敬しているから(話している人が偉いから)
- (上記)これら10項目に気を付けてください。それらは真理であることの証拠にならない
- これは善であり、悪であると自分自身で知ってから(attanāva jāneyyātha)善を行いなさい、悪をやめなさいと説かれたのです
- たとえ知識人であっても騙される
- ここで知識人の弱みを説明してあります
- これで宗教・信仰から騙されること無く身を守ることが出来ます
騙されない・騙せいない人
- 完全に煩悩をなくした人
- 自分の利益に完全に達したので利益を求める必要がない
- 覚者には生命にしか憐れみしかないので、信じることに値する
- 他をいかなる理由でも騙すことをしない
- 現象の世界に対する真理を発見しているから語っている言葉は事実のみです
メモを元にしているので、不正確な部分があります。(必ずしも長老がお示しになったパワーポイント の内容通りではありません。)
初出: Fri May 13 2011 23:40 (+0900)
ブッダの勝負に「敗者」は要らない — 「幸福の零和」を覆す生き方 〜スマナサーラ長老法話メモ(2010年3月20日 オリンピック記念青少年総合センター)
(イントロダクション)
勘違いの幸福論
- 人生は戦い(競争): 何かを得るには、努力・精進・がんばらないと何にも達しない
- 座って待っているのはありえない
- 逆も同じ: 何もしないのも苦しい
- 勝負には勝者・敗者がいるが、これが問題
- 仏教的な中道の立場で眺めてみる
- 金・財産・名誉・権力・社会的立場があること
- 自分と家族に対することが希望通り・計画通りに進むこと
- 自分の好み通りに生きられること
- 幸福は人の定義によって違うので最初からも幸福とは何かを理解していない
手段が目的になっている
- こちら側に不幸の原因がある
- 金・財産は幸福になるための手段・道具
- 道具の使い方によって良い結果になったり、悪い結果になったりする
- 道を限りなく集める
- しかし、使い方を学ばない
例)
- お金の正しい使い方
- 財産の正しい使い方
- 知識の正しい使い方
- ですから、俗世間の幸福論は苦しみ・不幸を起こす道なのです
奪い合う
- 道具が幸福だとしているので、その道具を獲得しなくてはならない
- 他の人も同じものを欲しがります
- しかし資源にはリミットがあります
- それでは「我先に」と奪い合わなければならない
- 結局、幸福に至る道は奪い合い合戦になる
(幸福の落とし穴) 敗者の増加
- 取られる・奪われる側が敗者です
- 「幸福になろう」と頑張ると敗者が増える
- 敗者は貧困になる・不幸になる
- 例) 男子三人が一人の女子に恋に陥ったら結果はどうなるでしょう
- 勝者はさらに勝利を得る、敗者はさらに敗北する傾向もある
- これは、敗者は精神的にも負けるからです
(幸福の落とし穴) 勝者は儚い
- 財産・権力・能力・家族・健康など、幸福だと思うものは全て消え去る・逃げる
- 幸福を守る・維持管理するという新たな問題が起こる→ これも苦しい
- 勝者でも、これに失敗すると、敗者の仲間になります
- 勝利を得る度に、それを守る苦しみが増えていきます
不幸に陥る俗世間の勝利者
〜勝利者についてくる様々な危険〜
世間の敵になる
- 自分がライバルとだと思う相手が敵だとする
- 成功しようと思うと必ず敵意を抱きます
- やがて世間に対して敵視するようになったり、誰も信頼出来なくなったりする
- 敗者の怒り・憎しみを買うことになる
- 一般的に世間の怒り・嫉妬・恨みの的になっていまう
- (慈悲の実践は必要)
心が汚れ る
- 汚れた心で競争に挑まなくてはならない
- 成功したところで、エゴの錯覚が強化される
- 幸福を守らないとならないので、欲と執着が生まれてくる
- 競争して生きる場合は、常に心の不安・悩み・落ち込みなどを経験する
- 競争する生き方は、心の安らぎ・幸福・安心感を得られない。成功すればするほど悩む羽目・苦しむ羽目になる。成功しない と、悩む・苦しむ羽目になる。
幸福を楽しめない
- 競争で忙しい
- 競争心で生きるから、心の安らぎ・落ち着きがなくなる、不安に陥る
- 世界を敵にまわしているので、落ち着いて幸福を楽しめない: どこにっても楽しくない
- この世で楽を得ても、心が一生汚れていたので、死後、大敗者になる
勝者も敗者も苦しみに辿りつく
- 敗者には、現実も苦しいのです
- こころが汚れてしまう
- 他人を恨んだり、嫉妬したり、自分を卑下したり、自分を憎んだりする羽目になる
- 簡単に罪を犯せるようになる
- 心が汚れたので、この世の苦しみの後、死後に大敗者になるのです
- 世間の幸福論はこんなもの
依存症
- 財産・家族などに幸福があると思う
- これは「ものに依存して喜びを感じる」こと
- 自分の幸福・喜び・楽しみなどが外のものが与えてることになる
- 財産・名誉・権力・家族などの奴隷になって、こころの自由がなくなります
- もの(道具)が変化しただけで、自分の幸福が苦しみに変わります
改良計画
〜俗世間の幸福への道に関わる危険・副作用を最小限に〜
必需品のリミット
- 人に限りなくものが必要ではありません
- 自分の心が満足を感じる・自分に管理できる範囲で希望するもののリミットをつけなくてはならないのです
- 財産を人から奪い取るものではありません
- 相手が与えるものです(ものすごく大事なことです)
- その条件・状況を作るのが自分の仕事です
与えるとは
- 与えられていないものを取ることは非道徳・罪です (五戒の二番目)
- (余分の取ろうとする)
- 相手が喜んで自分に(財産などを)与えるようにするのです
- そうなると相手はパートナーであって、競争相手・ライバルではなくなるのです
- 相手から何も見返りを期待しないで与えることは勝れた善行為になります
- 善行為とは、真の幸福をもたらす原因・力なのです
- 「徳(善行為)というのは幸福の同義語です」
- 様々な原因で幸福になれない弱い人々に与えることは、より勝れている(見返りを求めない)
- → 世界の不公平がなくなる・恨みっこはない
- 自分が幸福のポテンシャルを持つだけでなく、世間を見方に変えることになるのです
- 法則はgive&takeですが、世間はtakeだけで生活しようとする
- 先にtakeだけを考える、すごく汚れている
- 仕事はしたくない
- ボロ儲けを期待する
- 何かを与えること、投資することが避けられない、やむを得ない場合は、take&giveという順番にしています
- それは法則違反なのでで、give&takeにしなくてはなりません
与えられても「自分のもの」にならない
- 生まれてから、幸福になる道具を探し求めるのです
- 幸福で生まれることは、あり得ません
- 幸福の道具を持って生まれるわけではないので、与えられたもんであっても、最終的には「自分のもの」にはなりません
- 幸福はレンタルです(執着しないこと!)
- 夫・妻・子供もレンタルです
- 身体さえもレンタルです
- レンタルの決まりがあります。それを守って使用しなくてはいけない
逃げるものを追わず
- 理性的な生き方
- 若さ・体力・健康などから、財産・親族などの全ては自分から離れてい法則
- 逃がさないということは、法則違反、非道徳にもなります
- 強烈な欲、執着があることで、心は汚染してるのです
- 好きなものは全て離れていくと理解・納得する
真の幸福
〜道具のコレクターを止めて、道具を上手に使う〜
なぜ幸福の道具が必要?
- なぜ金が必要ですか、と問うてみる
- 最終的な答えは「苦しみがなくなる・楽しくなる」です
- ですから、幸福とは「心で感じる」ものなのです
- 何かを得る前に、それで喜びを感じられるのか、と調べるのです
二種類の道具
- 食事・服・住居・薬など、身体が壊れていくのを一時的に避ける道具
- (寿命を伸ばしてる)
- 欠かせない
- 音楽・絵画など、心を喜ばせる道具(必ずしも無くてもよい)
- どちらでも、度を超えては不幸になる
- また、心が汚れないように注意して、その道具を使用するのです
- 要するに、金持ちになる前に良い人間になることです。それが道具の使い方。
- 先に使い方を学ぶ、それから、適当な道具を探す
例: 歴史から何を学ぶか。(丸暗記の度合を測るのではなく)
心の汚れと幸福感
- こころの汚れが不安・悩み・苦しみを感じさせます
- 豊かであっても、こころが汚れていると、幸福を感じません
- 本当に幸福になりたいと思うなら、物に依存する前にこころを清らかにすることを優先するのです
- 人の本業はこころを清らかにすることです
見方を変えらえる
- 執着で闇雲に財産を奪いまくるのではなく、見方を変えてみましょう
- 豊かになって、人に優しい、人々を助ける人間になる、など
- 結婚することで、我儘・奔放をやめてみる、他人をも心配する
- 知識・権力などを得る度に謙虚になる
- (完璧ではないが、危険が減ります)
限りのない幸福
〜自分も他人も幸福になる道〜
心の喜びと安穏
- こころの気持ちは他人にも移るのです
- 喜びを感じる、優しいこころで生活するなら、その波動は周りにも移るのです
- 一切の生命が幸福でありますように、というモットーで生きる人は世界を味方に変えるのです
- それで、皆の楽しみに、幸福になるのです
勘違いを直す
- 財産などの道具 = 幸福だとすると、勝者・敗者も最後に不幸になる
- こころの喜び = 幸福とすると、その幸福は貧富の区別なく、誰にも達することが出来る
- 『我は他より偉い』と思う邪道を止めて、みんな平等
仏道
- 物を得る度に、依存症が強くなる
- 不安・不満・苦しみが増える
- こころは一方的に汚れる道に入る
- 物・道具に依存することが少なくなる程、こころが自由になる・清らかになる・幸福感が増す
- ですから、物に依存しない幸福感・充実感を経験できるようにこころを強化すること・浄化することに励むのです
- 全てを捨てて釈尊が解脱によって究極の幸福に達したのです
- 一切のものごとに執着しない・依存しないという境地に達することが解脱なのです
- 一人が解脱すると、一人が地獄に陥いるということはあり得ない
- 一人でも解脱に達すると、周りも幸福になるのです
解脱の幸福
- 仏道は「得る道ではなく、捨てる道」
- 「得る」とは、誰かから取ることです
- 捨てることで、他人が不幸になりませんし、皆に捨てることが出来る
- 捨てるという意味は「執着を無くすること」
- こころの汚れを落とすことです
- 富豪にも、貧困の人にも、出家にも、執着を捨てられます
- 執着を捨てるとは、世間と戦うことでも、財産を壊すこと、自然を破壊することでもありません
- 仏教は、全ての生命に真の幸福に達する道を説く
- 敗者がいない真の勝利への道です
- 仏教が語る幸福へ至る道は、実践しやすく、論理的、すぐ結果が得られる
- 究極的なこころの安らぎ・解脱が得られる一本の道
- この世の幸福・死後の幸福・究極の幸福(解脱)を一貫して並べている教えです
メモを元にしているので、不正確な部分があります。(必ずしも長老がお示しになったパワーポイント の内容通りではありません。)
初出: Wed March 24 2010 22:35 (+0900)