hohi’s blog

初期仏教の勉強・実践とパーリ語の学習

編集局長のあれ

20年近く日本テーラワーダ仏教協会に入っていますが、そろそろ退会しようかと考えています。

 

SNSで特定の思想に凝り固まった投稿を繰り返している編集局長が編集しているような協会誌は、なんだか素直に読むことが出来そうにありません。このことは、以前からずっと感じていたことです。(もちろん協会誌の中身は真面目な仏教の内容だと頭で理解はしているつもりです。なにぶん 凡夫なので感情に負けてしまうことは日常茶飯事です。正直言うと、彼の書くことが気持ち悪いのです。)

 

御布施はしたいと考えていますが、御布施はサンガ(会社ではない)以外にあのような特定思想の活動の食い扶持にも充当されていると想像します。それはまったく本意ではありません。

 

と言ったところでしょうか。

 

協会に入らなくても種々イベントには参加できますし、自身の仏教の実践は協会とは関係ありません。わたしには余計なノイズを減らすほうが良さそうと考えて、今回のような結論に至りました。

 

The Mirror of the Dhamma

"The Mirror of the Dhamma"という小冊子があります。

 

礼拝・三帰依・五戒などの日常読誦(どくじゅ)の文言・お経のパーリ語がコンパクトにまとめられているものです。

 

ずっとカバンにお守りのように入れてあったのですが、ボロボロになってきました。

 

最近はKindleで本を読むことが多いのでpdfを入れておくことにしました。

 

https://what-buddha-said.net/library/Wheels/wh054.pdf にあります。

 

版を重ねて今は第5版です。

慈悲(Metta)の実践

Access to Insight Library にある Ñanamoli Thera によ る"The Practice of Loving-Kindness (Metta): As Taught by the Buddha in the Pali Canon", compiled and translated by Ñanamoli Thera. Access to Insight (Legacy Edition), 30 November 2013, http://www.accesstoinsight.org/lib/authors/nanamoli/wheel007.html を訳してみたものです。

実際に訳してみて、分かり難いところもありました。勘違いや間違いがあるかも知れません。お知らせ頂けると幸いです。


   はじめに   

love「愛」という語 — 英語の中で最も引き込まれる語の一つ—は通常とても広く、大まかで、深遠な意味で使われているため、時にほとんど無意味になっています。 それでも、正しく理解されるならば、愛は平和で進歩的で健康な社会の構築だけでなく、個人の成長と清浄のために不可欠で大事な基礎です。

さて、愛というものは主要な二つの気持ちを考えることができます: 恋人が互いに抱くもの、そして、母親が子に抱くものです。 精神論的な流儀では、愛は一方あるいは他方から刺激を引き出すことができるものです。 恋人達の互いへの愛を理想とするような愛は、しばしば激しい激情と見なされ、時に苦痛や受難などを通じた純粋さを要求します。 しかし、子への母親の愛を指標とする愛は、全ての安全、幸福、精神的な健康(自分の健康を守るように母親は子に最善を尽くします)の純粋な理想的な源泉までに、それ自身を高めることができます。 ブッダが普遍的な愛(訳注:慈悲)の教えの基礎としているのは、この後者の種類の類です。

ギリシャ語では感覚的(訳注: 性的)なエロスと精神的な愛(訳注: 神の愛)の二つを区別しているのに対して、英語は"love"「愛」の一つの語だけを用います。 パーリ語では、サンスクリット語のように、多くのニュアンスの意味を包含する単語が沢山あります。 この教えに対してブッダがお選びになった言葉は、mitta 友(より正確には「真の友」)という語から、mettaです。

ブッダの教えのmettaは、他の生命との健全・平和な関係を育てるための四つの瞑想の最初に挙げられています。 その四つとは、metta(訳注: 慈)今後は「慈しみ」と解します、karuṇā(訳注: 悲) これは「憐れみ」「同情」、muditā (訳注: 喜)これは「他者の成就を喜ぶこと」、そしてupekkhā (訳注: 捨) これは「落ち着いて観ること」です。 この四つは神の境地に留まること(brahmavihāra 訳注: 梵住)と呼ばれます。多分、これらの一つでも瞬間に維持できるのであれば誰でも、その時は最高の神(brahmā 梵天)が留まっているような状態にいるからでしょう。

ブッダの教えでは、この四つの梵住は「世間の最高の功徳」とされ、存在の本質の智慧が無くても、実践するだけで、一番高い神の境遇へ生まれ変わることができるとされています。 ですが、天界の存在も無常の例外ではありません。天界での寿命が尽きれば — それがどんなに長くても — その存在は死に、過去の業に応じて生まれ変わります。 これは存在への渇愛(人間であれ、神であれ)と、真理とは相容れない見解がその人に潜在していると、前世での善果を尽くしてしまうと、それらが再び湧き出てくるからです。 そうなると、転生することは確かですが、どの境遇に転生するからは予言できません。

ブッダ智慧の教えは、出来る限り簡潔にまとめると、次のようなことの智慧と見方を育てることです: 主観であれ客観であれ、いかなる物事がどのようにしてそうなっているか、 いかに条件を通じてのみ存在しているか、その存在の条件に永遠のものがないことから、いかにそれらが無常であるか、 常に複合的で無常の存在が、いかに苦しみから逃れらないか、そして 惹きつけられる、当てにならない考えで虹色の蜃気楼であるところの自我がいかに見つけることが出来ないか、 いかに楽しみの幻想が常に更新されているか。 さらに加えて、教えは苦しみからの本当の脱する道を示しています。 それは四聖諦に簡潔な形で表現されています: 苦の真理、苦の原因の真理(渇愛)、苦が滅することの真理(渇愛の放棄を通じて)、そして苦を滅する道の真理です。 この四つの真理はブッダ達の教えに特有のものと呼ばれています (Buddhānaṃ sāmukkaṃsika desanā 訳注: 諸仏の最勝の教え)。 なぜならブッダ達だけが発見した真理だからです。

この道(四聖諦)はまた中道とも呼ばれます。これは、快楽主義と苦行の二つの極端な道を避けるからです。 その八つの道は、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定です。 慈悲の実践だけでは、最初以外の七つにいくばくかの効果があります。しかし、涅槃に達するにはまさに正見(自己欺瞞なく)が必要です。 正見によって、人、神の存在の、幻想、まやかしの本当の性質に対する洞察を得ることができ、正見の助けによって慈悲の実践は完全になり、 天界ですら逃れられない無常からの脱出、苦の真の消滅に導くのです。

真の苦の消滅は、邪見による幻想を捨て去り、欲と怒りの二つの渇愛の流れを枯渇させることで実現されます。 この、欲と怒りと無知の根絶が涅槃と呼ばれます。

以下に示す経典は(順番に)次のことを示しています: 全ての怒りと憎しみの惨めさ(ブッダの教えには正当な怒りというものは存在しません); 慈悲の功徳; 瞑想としての慈悲の実践; それによる転生の果; すべての存在が無常であり、苦であり、無我であることを観ること。これは真理と一致した見解を持つのに必要で、これなければ束縛からの確固たる解放の第一段階に到達できません。 (たとえ天界であっても、生まれること、命の代償が死であるかを理解できるようになるのは、まさにこの智慧です); そして最後に、全ての欲、怒り、無知を克服し、人あるいは神になること、生まれ変わることへの欲がこれを最後に無くなることで、阿羅漢果を得ること。

けれどもまずは、経典の前に、瞑想のマニュアル Visuddhimagga 「清浄道論」に述べられている内容を置いておくわけにはいきません。

metta (慈悲)は次のように定義されています: 「 慈悲はその性質として、友好的な気持ちを持っています。 そのふさわしい機能は、友好を育てることです。 それは悪意の消滅として明確に現れます。 その基盤は思いやりで見ることです。 上手くいくと、悪意を消し去ることができます。 上手く行かない時は、利己的な愛着の欲望に堕落します。 」

Visuddhimaggaでは、楽な姿勢で座ることができる、静かな場所に行くことを推奨しています。 それから、実際に瞑想を開始する前に、憎しみの危険と、忍耐(寛容)による利点について考えることが役立ちます。 というのは、この瞑想の目的が憎しみを忍耐(寛容)に置き換えることだから、さらに、(訳注: 憎しみによる)まだ遭遇していない危険を避けられないことだから、(訳注: 寛容によって)まだ知らない功徳を育てることだからです。

それから、最初のうちは、ある種の人々に対しては慈悲の対象とすべきではありません。 最初のうちは、嫌いな人々を親愛なる人とみなすことは、とても疲れます。同様にとても親しい友人を中立的な態度でみなすこと、怒りが湧き上がる敵の時も、とても疲れます。 また、最初のうちは、異性に対しても向けるべきではありません。それは性欲を刺激することがあるからです。 最初は、慈悲の瞑想は次のように、まず自分に向けて繰り返し行いなさい: 「私は幸せでありますように。私の苦しみが無くなりますように」、あるいは「私が憎しみや苦しみから逃れられますように。そして幸せに生きられますように」(これによって、瞑想による完全な定に入ることはありませんが)。 例として自身を「幸せでありますように」と念ずる訓練によって、他の生命の幸福・幸せを考え始め、あたかも自分のことであるかのように、その生命の幸せを感じるようになるのです。 「私が幸せと苦しみから逃れられることを望むのと同様に、私が生きていたくて、死にたくないと望むのと同様に、他の生命もそうである」 ですから、最初は自分を例にして慈悲の気持ちを広げて慣れるようにしなさい。 その時は、好ましく思っていて、高く評価していて、とても尊敬している人を対象に選びなさい。 その人に向けて、慕う言葉やその人の美徳を思い起こしながら、「幸せでありますように」とその人のことを思い浮かべて瞑想を行いなさい。 (こうして、言葉の瞑想は置き去りにして、瞑想の完全な定に入ることができます。)

このやり方に慣れてきたら、慈悲を親しく最愛の仲間に向けて実践したり、中立的な人に親しみを向けて実践したり、敵と思っている相手を中立的に見なして実践しなさい。 敵と思っている相手のことを考えて怒りが生じた時は、あらゆる手段でそれを取り除きなさい。 これが上手く出来るようになると間もなく、敵と思っている相手に憤りを感じること無く見なせるようになり、他の高く評価している人々、親しい仲間、中立的な人々に対してと同様に慈悲の気持ちを持てるようになります。 これを繰り返し訓練することで、すべての場合でjhāna 禅定が得られるでしょう。 慈悲はもはやすべての生命に対して向けることが出来ます; ある時はいくつかの特定のグループの生命に対して、ある時のある方向から全部へ、連続して特定のいくつかのグループに対して、という風にです。

慈悲は人と人との間にいかなるバリアもないところまで高めるべきなのです。この説明には次の喩えが良いでしょう: ある人が、仲間と、中立的な人と、敵と思っている人といたとしましょう。 そして賊がきてこう言います:「我々はあなた方のうち一人の人間の生贄が必要です」。 ここで、もしも「この人、あるいはこの人を差し出そう」と思うなら、その人はバリアをまだ壊していません。同様に「他の三人ではなく、私を差し出そう」と思うのも、また、バリアを壊していません。 なぜでしょうか。 それは、その人が差し出そうとした人に害を加えようとしており、また他の三人だけの利益を考えているからです。 いずれかの三人を優先させて四人のうちのだれか一人だけを探すことがなく、自身にも他の三人にも偏りなく気持ちを向けている時に、ようやくバリアを壊したと言えるのです。

慈悲は、「内なる敵」として欲を持っています。それは慈悲が生まれると簡単に入り込みます。そして、それに対して慈悲をよく守りなさい。 この欲に対する特効薬はSatipaṭṭhāna Sutta (長部経典 22と中部経典 10 訳注: 念処経)に述べられている(身体)の不浄観の瞑想です。 慈悲の「外なる敵」はその対角にある悪意です。それは慈悲がしっかり実践されていない隙間に顔を出すことが分かります。 (詳細の全部についてはVisuddhimaggaのIX章にあります。)

多くの経典でブッダは瞑想での集中力(訳注: 定)と智慧のバランスの必要性を強調しています。 それらは互いに欠点を補い合います。 集中力だけでは、方向性が欠けます。 智慧だけでは、無味で飽きます。 経典では、子供に対する母親の愛の喩えがあります。 上記の全て種類の上に位置する、比類のない母親の愛情は、母親が子供の幸福を理解している上に成り立っています。 — 母親の愛情は盲目ではありません。 愛情だけ、確信だけでは、苦しみの完全な消滅への道が開かれません。ですから偉大なる医者としてのブッダは五つの能力を、バランスのよい調和で育てることを教示されたのです:その五つは 信力、精進力、念力、定力、慧力です。

こうして、目的を達する方法として見なされる、最上の形の愛情の集中力は ブッダだけが教え、他の誰も教えていない形です — 人の究極の幸福である涅槃「束縛からの最勝の安全」(anuttaraṃ yogakkhemaṃ)を自ら体験する人のなかで、完全に清らかなものとなります。 自身の体験から、苦しみを調べ、苦しみの原因を無くし、苦しみの消滅を実現し、その道が保たれた時だけ、それらの幸福がずっと保証されることを知ります。 そうして、自身で四聖諦を確かめて、存在の幸福について正しく見極めることができるのです。

「比丘たちよ、四聖諦を発見せず、理解しなかったために、私もあなた方も永い輪廻転生を繰り返しを歩き、旅してきたのです。」 (長部経典 大般涅槃経 第二章). まだこの境地に達していない生命のために、ブッダによってその道が発見され、示され、阿羅漢達によってその実践が証明されているのです。

実際、この経典コレクションの最後では、慈悲を乗り物として活用して四聖諦を自ら体験したやり方が示されています。

出典についての注釈

アングッタラ・ニカーヤ(増支部経典)からの経典には、番号の後に nipāta(訳注: 偈集)を添えてあります。 サンユッタ・ニカーヤ(相応部経典)からの経典には、番号の後に、saṃyuttaを添えてあります。

    慈悲の実践   

怒りの惨めさ

1. 増支部経典 7:60 から (ブッダの言葉)

比丘たちよ、男であれ、女であれ、怒っている者に対して降りかかる、敵を満足させ、助けることが七つあります。 その七つとはなんでしょうか。

ここに、比丘たちよ、敵は自分の敵に対して「醜くあれ」と願います。 これは何故でしょうか。 自分の敵の美しさを好む敵はいません。 怒っている時、怒りの餌食になっている時、怒りに支配されている時の人は、どんなに身体を綺麗にしていても、清められていても、髪や髭を手入れされていても、真っ白な服を着ていても、それでも、怒りの餌食になっていることから彼は醜いのです。 これが、男であれ、女であれ、怒っている者に対して降りかかる、敵を満足させ助ける一番目のことです。

また、敵は自分の敵に対して「苦しみで横たわれ」と願います。 これは何故でしょうか。 自分の敵が、心地よく横たわっていることを好む敵はいません。 怒っている時、怒りの餌食になっている時、怒りに支配されている時の人は、敷物、毛布、鹿皮のカバーで覆われた寝台に横たわろうが、装飾や赤いクッションの上に頭や足をのせていようが、怒りの餌食になっていることから彼は苦しんで横たわるのです。 これが、男であれ、女であれ、怒っている者に対して降りかかる、敵を満足させ助ける二番目のことです。

また、敵は自分の敵に対して「繁栄がなくなれ」と願います。 これは何故でしょうか。 自分の敵の繁栄を好む敵はいません。 怒っている時、怒りの餌食になっている時、怒りに支配されている時の人は、良いことを悪いことと誤解し、悪いことを良いことと誤解し、一方が他方の意図を間違って受け取ります。怒りの餌食になっていることから、これらが長く害と苦しみを彼に導きます。 これが、男であれ、女であれ、怒っている者に対して降りかかる、敵を満足させ助ける三番目のことです。

また、敵は自分の敵に対して「豊かさがなくなれ」と願います。 これは何故でしょうか。 自分の敵の豊かさを好む敵はいません。 怒っている時、怒りの餌食になっている時、怒りに支配されている時の人は、努力、自身の腕の力によって得られた、汗や合法に稼いだ、あるいは合法に得られたもので豊かになったとしても、それでも、怒りの餌食になっていることから、王の役人が(罰として)集めてしまいます。 これが、男であれ、女であれ、怒っている者に対して降りかかる、敵を満足させ助ける四番目のことです。

また、敵は自分の敵に対して「名声がなくなれ」と願います。 これは何故でしょうか。 自分の敵の名声を好む敵はいません。 怒っている時、怒りの餌食になっている時、怒りに支配されている時の人は、勤勉さで得られた名声かも知れませんが、怒りの餌食になっていることから、名声を失います。 これが、男であれ、女であれ、怒っている者に対して降りかかる、敵を満足させ助ける五番目のことです。

また、敵は自分の敵に対して「友達がなくなれ」と願います。 これは何故でしょうか。 自分の敵に友達がいることを好む敵はいません。 怒っている時、怒りの餌食になっている時、怒りに支配されている時の人は、友達や仲間、親類縁者であろうと、怒りの餌食になっていることから、彼から離れるでしょう。 これが、男であれ、女であれ、怒っている者に対して降りかかる、敵を満足させ助ける六番目のことです。

また、敵は自分の敵に対して「身体の消滅する死後、剥奪された状態、悪い境遇、破滅の境遇、地獄にすら転生しろ」と願います。 これは何故でしょうか。 自分の敵が良い境遇に転生することを好む敵はいません。 怒っている時、怒りの餌食になっている時、怒りに支配されている時の人は、怒りの餌食になっていることから、身体、言葉、心で悪い行いをし、この身体、言葉、心の悪い行いによって、身体の消滅する死後、剥奪された状態、悪い境遇、破滅の境遇、地獄にすら転生します。 これが、男であれ、女であれ、怒っている者に対して降りかかる、敵を満足させ助ける七番目のことです。

人が怒りを持っている時
彼は醜い 彼は痛みで横たわる
彼が受け取る利益は
不運として誤解すること。
彼は(罰として)富を失う
なぜなら、彼は有害に働いてきたから
身体と言葉の行いを通じて
怒りの感情に打ち負かされたから。
彼を怒り狂わせる激怒と憤怒は
悪評という名のものを彼に与える。
彼の仲間、親類、縁者らは
遠くから彼を避けようとする
そして怒りは惨めさを生み出す。
この激憤は心を曇らせ
その男は分別できない
この恐ろしい内なる危険を。 怒りの者は知る由もない
怒りの者はダンマを理解することはない
盲目のように、暗黒にくるまれ
彼は怒っている愚か者である。

怒る者は誰かを害する
しかし、その怒りが後で尽きた時
それが難しかろうが、易しかろうが、
火で焼かれるように、彼は苦しむ。
その者の見た目は不機嫌を晒し
それは、くすんで、くすぶる、抑えがたい紅潮である。
怒りの炎が揺らめく時は常に
その者らの世界を燃やす。
その者は恥らい、良心による抑制を持たず
その者からは思いやりの言葉は出てこない
逃れる島はない
怒っている愚か者には。

そういった行為はきっと後悔をする
そういった行為は本当のダンマからはかけ離れている:
私が語ることはこのこと(訳注: 本当のダンマ)です、
ですから、私の言葉に耳を傾けなさい。

怒りはその者に父親殺しをさせる
怒りはその者に母親殺しをさせる
怒りはその者に聖者を殺戮させることもできる
普通の人を殺すかのように。
母親に乳をもらい、育てられ
その者は世界を分かるようになる
それでも、普通の者でも怒りを持つなら
命を与えてくれた者を殺す。

いかなる者も自分にとって良いことを探す
自分よりも最も愛おしい者はいない
怒りの者らは、彼ら自身を殺す
色んな理由で怒り狂って。
その者らは、気がふれて自身を短剣で突き刺す
自暴自棄で毒をあおる
縄に首をかけ、あるいは身を投げ出して非業の死をとげる
自身を絶望に晒して。
その者らの命を壊す行いが、いかに
彼ら自身にもまた死をもたらすか
彼らは理解できない、そして
怒りが呼ぶ破滅をも。

この秘密の場所は、怒りの助けを借り
死ぬ運命は罠をしかける。
鍛錬によって汚れを拭き取るために、
智慧と精進と正見でもって
一つずつ悪行を改めていく
賢き者は精進せよ
本当のダンマに沿うように訓練して。
「怒りのくすぶりが我々からなくなるように」と
そして激怒を取り除き、怒りから解放され
欲望を取り除き、妬みから解放され
よく鍛錬し、怒りを置いてきて
清らかになるならば、その者らは涅槃に達する。

怒りの取り除き方

2. ダンマパダ, 第3-5偈 および 中部経典 128 から (ブッダの言葉)

「彼は私を罵った、彼は私を打った、
かれは私を負かした、彼は私から奪った」
怒りが和らぐことはない。
そういう憎しみを抱く者らには。
「彼は私を罵った、彼は私を打った、
かれは私を負かした、彼は私から奪った」
怒りは必ず静まる、
そのような憎しみを抱かない者らには。
怒りによって、怒りは
この世界からは決して静まらない。
怒らないことで静まる。
これは昔からの真理である

3. 増支部経典 5:161 から (ブッダの言葉)

比丘たちよ、怒りが生じた時に、怒りを完全に取り除く方法が五つあります。 その五つとは何でしょうか。

悩まされている相手に慈しみを気持ちを向けなさい。こうして怒りを取り除くことができます。 悩まされている相手に憐れみ(同情)の気持ちを向けなさい。これもまた、怒りを取り除くことができます。 悩まされている相手を平静で眺める気持ちを向けなさい。これもまた、怒りを取り除くことができます。 悩まされている相手のことを忘れ無視することを実践しなさい。これもまた、怒りを取り除くことができます。 悩まされている相手に対して、人の行為の所有者を次のように念じなさい: 「この善良な人は彼の行為の所有者です、彼の行為を受け取る人です、彼の行為は彼が生まれる子宮です、彼の行為は彼が責任を持つ親類です、彼の行為が彼の家です、彼が自分の行為を継承する人です、その行為が善くても悪くても。」 これもまた、怒りを取り除くことができます。 これらが、悩みが生じた時に、悩みを完全に取り除く五つの方法です。

慈悲とその功徳

4. 中部経典 21 から (ブッダの言葉)

比丘たちよ、他の人々があなた方のことを話題にする時に五つの場合があります。 その話が折が良い・悪い場合、真理である・真理ではない場合、優しい言葉・乱暴な言葉の場合、有益・有害な場合、慈しみの気持ち・憎しみの気持ちの場合です。

ある人が鍬とカゴを持ってやってきて、「この大地から土を無くしてしまおう」と言ったとしましょう。 そして、「土をなくそう、土をなくそう」と言いながら、あちこちを掘り、あちこちにばらまき、あちこちに唾をかけ、あちこちに放尿します。 比丘たちよ、彼はこの大地から土を無くすことができるでと思いますか。 — いいえ、世尊よ。 なぜでしょうか。大地は、深くて、測り知れないからです。大地から土を無くすことはできません。 こうして、その者は疲れ果てて、がっかりするでしょう。

ある人が褐色、橙色、青、真紅の絵の具を持ってきて「この空に絵を描いて見えるようにしてやろう」と言ったとしましょう。 比丘たちよ、彼はこの空に絵を描いて見えるようにできると思いますか。— いいえ、世尊よ。 なぜでしょうか。空は形がなく見えないからです。 彼は絵を描き見えるようにできません。 こうして、その者は疲れ果てて、がっかりするでしょう。

また、比丘たちよ、他の人々があなた方のことを話題にする時に五つの場合があります。 その話が折が良い・悪い場合、真理である・真理ではない場合、優しい言葉・乱暴な言葉の場合、有益・有害な場合、慈しみの気持ち・憎しみの気持ちの場合です。 その時でもあなた方は次のように訓練しなさい: 「私達の心は揺らぎません、乱暴な言葉は口にしません、慈しみと憐れみに住みます、慈悲の気持ちを持ちます、憎しみを持ちません。 私達は他の人びとも包む慈悲の心に留まります、その慈悲の対象を世界全体に広げて住みます、満ち溢れ、喜ばしく、無量の慈悲の気持ちを持ちます、敵意や悪意を持ちません」と。 このようにあなた方は訓練しなさい。

賊が両手鋸で足を切り落としている時でも、心が怒りで汚れる者は、私の教えを守る徒ではありません。

比丘たちよ、この鋸の喩えの教えを心に刻んでおきなさい。

5. 如是語経 27 から (ブッダの言葉)

比丘たちよ、いかなる世間的な利益があろうとも、慈悲による心の救いの十六分の一にも及びません。 慈悲による心は、その救いの輝き、光、発する明るさで、それらより遥かに勝っています。

それは、いかなる星の光であろうとも、月の光の十六分の一ほどの価値もないようなものです。 月の輝き、光、発する明るさは、それらより遥かに勝っています。 そして、雨季の最後の月、秋の晴れた空で、太陽がその輝き、光、発する明るさで、すべての闇を空から追いやるようなものです。 そして、夜が明ける時に、明け方の星がその輝き、光、明るさを発するようなものです。 このようにして、いかなる世間的な利益があろうとも、慈悲による心の救いの十六分の一にも及びません。 慈悲による心の救いは、その輝き、光、発する明るさで、それらより遥かに勝っています。

6. 増支部経典 11:16 から (ブッダの言葉)

比丘たちよ、慈悲の心を保ち続け、乗り物として活用し、基盤として活用し、確立し、強固なものとし、適切に管理しているならば、その者には十一の利益があります。 その十一とは何でしょうか。

快適に眠りにつきます、快適に目覚めます、悪夢を見ません、 人々に親しまれます、 人間以外の生命からも親しまれます 神々から守られます、 火や毒や武器から害されません、 心がすぐに集中できます、 顔の表情が落ち着いています、 死に際して混乱することがありません、 たとえ真理に到達しなかったとしても、神々の境遇、梵天の境遇に転生します。

7. 相応部経典 20:3 から (ブッダの言葉)

比丘たちよ、女が多く、男が少ない一族は、盗人や賊によって簡単に滅んでしまうように、慈悲の心を保持せず、満たしていない比丘は、人間以外の存在によって簡単に滅びます。 比丘たちよ、女が少なく、男が多い一族は、盗人や賊によって簡単に滅ぶことが無いように、慈悲の心を保持し、満たしている比丘は、人間以外の存在によって簡単に滅ぶことがありません。 ですから、比丘たちよ、このように訓練しなさい: 慈悲の心を保持し、満たし、乗り物として活用し、基盤として活用し、確立し、強固なものとし、適切に管理するようにしなさい。 このようにして、訓練しなさい。

8. 増支部経典 1:53-55, 386 から (ブッダの言葉)

比丘たちよ、指を鳴らす間だけでも慈悲を育てている者は、比丘と呼ばれます。 彼は瞑想で禅定に至っていなくても、師の教えを実践しています、助言に従っています、布施された食事を無駄に食べてはいません。 ですから、慈悲の心を満たしている者については、何をいう必要があるでしょうか。

9. 長部経典33から (阿羅漢サーリプッタ尊者の言葉)

ここに、友よ、比丘がこう言います:「慈悲の心が保たれて、満たされていて、乗り物として活用し、基盤として活用し、確立し、強固なものとなっており、適切に管理している時、それでも悪意は自分の心に入り込んで、留まるだろう」と。 彼はこう言われるべきです:「そうではありません。世尊はそう仰っていません。世尊の言葉を間違って伝えてはいけません。世尊の言葉を間違って伝えるのは善いことではありません。世尊はそのように表現されていません」と。 友よ、慈悲の心が保たれて、満たされていて、乗り物として活用し、基盤として活用し、確立し、強固なものとなっており、適切に管理している時、悪意が心に絶対に入り込んで、留まることはできることは、不可能ですし、あり得ません。 ですので、慈悲の心を保つことは、悪意からの解放と言われるのです。

瞑想としての慈悲

10. 慈経, スッタニパータ 第143-152偈から (ブッダの言葉)

善なる道に巧みに励む者が
平安を得るために行うべきことは次の通りです
何事にも優れ、正しく、真っ直ぐで、
話をよく聞き、優しく、自惚れがなく、

また、満ち足りて、指導しやすく、
雑事が少なく、簡潔に生活し、
感覚器官は落ち着き、賢明で、慎みがあり、
在家への感情に囚われないように。

賢者が批判するかもしれない
どんな些細な事もしないように。
(こう念じなさい):「安らかで、幸せで
すべての生命が、幸せでありますように!

呼吸するいかなるものでも、
か弱いものでも、強いものでも、
長いものであれ、大きいものであれ
中くらいのものであれ、短いものであれ、
小さいものであれ、巨大なものであれ、

見えるものでも、見えないものでも
遠くに住するものであれ、近くに住するものであれ、
既に生まれたものであれ、生まれようとしているものであれ、
すべての生命が幸せでありますように!

いかなる時も、誰をも騙さず、
軽蔑すらしないように。
怒りや、腹を立てて
互いの苦しみを望んではいけません」と。

たった一人の子供を守るために
母親が命をかけるように
すべての生命に対して
無量の心を保ちなさい。

この無量の慈しみの念を
この世のすべての生命に向け続けなさい。
上にも、下にも、横にも、
わだかまりなく、憎しみなく、敵意ないように。

立っている時も、歩いているときも、座っている時も
横になっている時も、眠っていない限り
この念を保ち続けなさい。
これが梵天の生き方と言われます。

邪見に囚われず、
戒を守り、正見を得て、
感覚の欲望から自由になる時、
二度と子宮に宿ることはありません。

11. 順序立った訓練: 無礙解道から (伝統的に阿羅漢サーリプッタ尊者の言葉と解される)

慈悲の瞑想は、不特定の対象、特定の対象、特定の方向に向けて行います。

対象を特定しない時は、次の五つのやり方で実践しなさい: 全ての生き物が憎しみ、悩み、苦しみから解放されますように、そして幸せでありますように。

すべての呼吸するもの達が...、全ての生物が...、全ての人が...、全ての身体を持つものが憎しみ、悩み、苦しみから解放されますように、そして幸せでありますように。

特定の対象に向ける時は次の七つのやり方で実践しなさい: すべての女性が憎しみ、悩み、苦しみから解放されますように、そして幸せでありますように。 すべての男性が...、すべての聖者が...、聖者でない全ての人々が...、すべての神々が...、すべての人間が...、すべての惨めな境遇の生き物が、憎しみ、悩み、苦しみから解放されますように、そして幸せでありますように。

特定の方向に向ける時は、次の十のやり方で実践しなさい:

東の方向のすべての生命が憎しみ、悩み、苦しみから解放されますように、そして幸せでありますように。 西の方向の全ての生命が...、北の方向の...、南の方向の...、東の中間の方向の...、西の中間の方向の...、北の中間の方向の...、南の中間の方向の...、下の方向の...、上の方向のすべての生命が、憎しみ、悩み、苦しみから解放されますように、そして幸せでありますように。

呼吸をするすべての生命が...

すべての生き物が...

すべての人々が...

すべての形あるものが...

すべての女性が...

すべての男性が...

すべての聖者が...

聖者ではない全ての人々が...

すべての神々が...

すべての人間が...

東の方向のすべての惨めな境遇の生き物が、憎しみ、悩み、苦しみから解放されますように、そして幸せでありますように、...、 上の方向のすべての惨めな境遇の生き物が、憎しみ、悩み、苦しみから解放されますように、そして幸せでありますように。

12. アビダンマ, Appamaññāvibhaṅgaより (伝統的にブッダの言葉と解される)

どのようにして、比丘は一方向だけでなく広がった慈悲で心を染めて住するのでしょうか。親しい最愛の人を見る時に友好を感じるように、全ての生命に慈悲を広げるのです。

四聖諦の智慧がない場合の実践

13. 中部経典 99 から (ブッダの言葉)

「師ゴータマよ、師ゴータマが位の高い神々の境地への道を教えていると聞きました。 師ゴータマが私に教えてくださるとありがたいのです。」

「それでは、私が言うことに注意深く耳を傾け、心を傾けなさい」。

「まさにその通りにいたします、師よ」とスバ・トーデッヤプッタは答えました。世尊はこう語られました:

「では、位の高い神々の境地への道とは何でしょうか。 ここに、比丘が、慈悲で心を染め、一方向、二番目の方向にも、三番目の方向にも、四番目の方向にも、上にも、下にも、周囲にも、そして、どころでも、あたかも自分に対してのように、全てにその心を広げて住します。 彼は、慈悲が豊かで、崇高で、無量の慈悲の心を持ち、敵意、悪意がなく、周囲の全てのものにその心を広げて住します。 このように慈悲で心が解放されている状態が保たれているならば、有限の大きさで制限されるような動作はなく、存続することはありません。 あたかも、力強い笛吹きが四方に響きわたらせることが簡単にできるように、このように慈悲で心が解放されている状態が保たれているならば、有限の大きさで制限されるような動作はなく、存続することはありません。 これが位の高い神々の境地への道です」と。

四聖諦の智慧とともに実践する場合

14. 増支部経典 4:125 より (ブッダの言葉)

ここに、比丘たちよ、ある者が慈悲で心を染め、一方向、二番目の方向にも、三番目の方向にも、四番目の方向にも、上にも、下にも、周囲にも、そして、どころでも、あたかも自分に対してのように、全てにその心を広げて住します。 彼は、慈悲が豊かで、崇高で、無量の慈悲の心を持ち、敵意、悪意がなく、周囲の全てのものにその心を広げて住します。

彼はそこに喜びを見出します、それを望ましいことと理解します、それに自分の幸福を期待します。 常に断固として、その境地に住し、もしその境地を失うこと無く彼が死ぬなら、彼は位の高い神々の境地に生まれ変わります。

位の高い神々の境遇での一劫年の寿命があります。 普通の人々(八正道を得ていない人々)は、そこに生涯留まります。 けれども、神々として寿命を全うした後は、そこを去り、(過去の行いに応じて)地獄道畜生道、餓鬼道に行くかも知れません。 しかし、世尊の言葉を聴く者は、(天界で)神々として寿命を全うした後は、最終的には、同じ神々の欲と怒りと無知を完全なる消滅に至ります。

これが、(聖なる道を得ることによって)智慧のある聞き手が、智慧のない普通の人から授けられる区別、違いです。すなわち転生の終着地の違いです(しかし阿羅漢は死後、生が完全に終わります)。

15. 増支部経典 4:126 より (ブッダの言葉)

ここに、比丘たちよ、ある者が慈悲で心を染め、一方向、二番目の方向にも、三番目の方向にも、四番目の方向にも、上にも、下にも、周囲にも、そして、どこでも、あたかも自分に対してのように、全てにその心を広げて住します。

(瞑想の状態の間)どんな、色、受(心地よいもの、不快なもの、どちらでもないもの)、想、行、識であろうと、彼はそれを無常で、苦となるもので、病であり、害であり、刺であり、不幸であり、苦しみであり、侵入者であり、無くなるものであり、実体がなく、自我がないと見なします。 身体が滅び、死後、彼は(不還果の者として)清浄な神々の境地に転生します(そこは、聖道を得て、欲・怒り・無知を消滅させ、少なくとも七回までこの世に転生する境地に達した者だけの場所です)。 この類の転生は(八正道に達していない)普通の人々には与えられません。

阿羅漢

16. 増支部経典 3:66 より (阿羅漢ナンダカ尊者の言葉)

このように私は聞きました。 ある時、ナンダカ尊者はサーワッティにあるミガラの母親の宮殿の東の寺院に住んでおられました。 ミガラの孫サールハとペークニヤの孫ローハナはナンダカ尊者のところに行き、挨拶をして脇に腰を下ろしました。 そうした後、ナンダカ尊者はミガラの孫サールハに話されました:

「さあ、サールハよ、風評であるから、伝統的にそうであるから、伝説として伝わっているから、経典に書かれているから、推量から、論理的な推察であるから、証拠から考察したから、好ましいから、熟考した結果であるから、他の誰かに能力があるから、『この比丘は私達の師であるから』と考えて満足しないでください。 あなたが『このことは役に立たない、非難に値する、賢者に批判される、取り入れて努力を費やせば害と苦しみを呼ぶ』と考えるならば、それらを捨てなさい。 あなたはどう思いますか。貪欲がありますか」。 — 「はい、あります、師よ」。 — 「異常な欲がその意味と私は言います。 貪欲によって、欲深い人は生きるものを殺します、与えられていないものを取ります、邪淫を犯します、嘘をつきます、その他同様のことをします。 彼の悩み、苦しみは長くつづくでしょうか」。 — 「はい、その通りです、師よ」。 — 「あなたはどう思いますか、怒りはありますか」。 — 「はい、あります、師よ」。 — 「悪意がその意味だと、私は言います。 怒りによって、悪意ある人は生きるものを殺します、与えられていないものを取ります、邪淫を犯します、嘘をつきます、その他同様のことをします。 彼の悩み、苦しみは長くつづくでしょうか」。 — 「はい、その通りです、師よ」。 — 「あなたはどう思いますか、妄想はありますか」。 — 「はい、あります、師よ」。 — 「無知がその意味だと、私は言います。 無知によって、妄想する人は生きるものを殺します、与えられていないものを取ります、邪淫を犯します、嘘をつきます、その他同様のことをします。 彼の悩み、苦しみは長くつづくでしょうか」。 — 「はい、その通りです、師よ」。

「あなたはどう思いますか。 それらのことは、有益でしょうが、それとも無駄でしょうか」。 — 「無駄なことです、師よ」。 — 「非難されるべきことでしょうか、それとも非難されないものでしょうか」。 — 「非難されるべきことです、師よ」。 — 「賢者に非難されることでしょうか、それとも賞賛されることでしょうか」。 — 「賢者に非難されることです」。 — 「それらを取り入れ、努力を費やすと、それらは悩み、苦しみを呼びますか、それとも呼びませんか、それともこの場合はどうなりますか」。 — 「それらを取り入れ、努力を費やすと、それらは悩み、苦しみを呼びます。この場合はそのようになります、師よ」。 — 「これが、私が『さあ、サールハよ、風評であるから、伝統的にそうであるから、伝説として伝わっているから、経典に書かれているから、推量から、論理的な推察であるから、証拠から考察したから、好ましいから、熟考した結果であるから、他の誰かに能力があるから、『この比丘は私達の師であるから』と考えて満足しないでください。 あなたが『このことは役に立たない、非難に値する、賢者に批判される、取り入れて努力を費やせば害と苦しみを呼ぶ』と考えるならば、それらを捨てなさい。』と言った理由です」

「さあ、サールハよ、風評であるから、伝統的にそうであるから、伝説として伝わっているから、経典に書かれているから、推量から、論理的な推察であるから、証拠から考察したから、好ましいから、熟考した結果であるから、他の誰かに能力があるから、『この比丘は私達の師であるから』と考えて満足しないでください。 あなたが『このことは役に立つ、賞賛に値する、賢者に賞賛される、取り入れて努力を費やせば幸せと満足を呼ぶ』と考えるならば、それらを実践し、それらに住しなさい。 あなたはどう思いますか。不貪がありますか」。 — 「はい、あります、師よ」。 — 「異常な欲が無いことがその意味と私は言います。 不貪によって、欲の無い人は生きるものを殺すことをしません、与えられていないものを取りません、邪淫を犯しません、嘘をつきません、その他同様のことをしません。 彼の幸せ、満足は長くつづくでしょうか」。 — 「はい、その通りです、師よ」。 「あなたはどう思いますか、不瞋はありますか」。 — 「はい、あります、師よ」。 — 「悪意の無いことがその意味だと、私は言います。 不瞋によって、悪意の無い人は生きるものを殺しません、与えられていないものを取りません、邪淫を犯しません、嘘をつきません、その他同様のことをしません。 彼の幸せ、満足は長くつづくでしょうか」。 — 「はい、その通りです、師よ」。 — 「あなたはどう思いますか、不痴はありますか」。 — 「はい、あります、師よ」。 — 「智慧がその意味だと、私は言います。 不痴によって、智慧がある人は生きるものを殺しません、与えられていないものを取りません、邪淫を犯しません、嘘をつきません、その他同様のことをしません。 彼の幸せ、満足は長くつづくでしょうか」。 — 「はい、その通りです、師よ」。

「あなたはどう思いますか。 それらのことは、有益でしょうが、それとも無駄でしょうか」。 — 「有益なことです、師よ」。 — 「非難されるべきことでしょうか、それとも非難されないものでしょうか」。 — 「非難されないことです、師よ」。 — 「賢者に非難されることでしょうか、それとも賞賛されることでしょうか」。 — 「賢者に賞賛されることです」。 — 「それらを取り入れ、努力を費やすと、それらは幸せ、満足を呼びますか、それとも呼びませんか、それともこの場合はどうなりますか」。 — 「それらを取り入れ、努力を費やすと、それらは幸せ、満足を呼びます。この場合はそのようになります、師よ」。 — 「これが、私が『さあ、サールハよ、風評であるから、伝統的にそうであるから、伝説として伝わっているから、経典に書かれているから、推量から、論理的な推察であるから、証拠から考察したから、好ましいから、熟考した結果であるから、他の誰かに能力があるから、『この比丘は私達の師であるから』と考えて満足しないでください。 あなたが『このことは役に立つ、賞賛に値する、賢者に賞賛される、取り入れて努力を費やせば幸せと満足を呼ぶ』と考えるならば、それらを実践し、それらに住しなさい』と言った理由です」

「高い境地にいる(聖なる道に到達した)仏弟子、彼はこのように貪瞋痴を滅し、慈しみで心を染め、一方向、二番目の方向にも、三番目の方向にも、四番目の方向にも、上にも、下にも、周囲にも、そして、どこでも、あたかも自分に対してのように、全てにその心を広げて住します。 彼は、豊かで、崇高で、無量の慈しみの心を持ち、敵意、悪意がなく、周囲の全てのものにその心を広げて住します。 彼は憐れみで...他の喜びを喜ぶ心で...平静に接する心で... 心を染め、一方向、二番目の方向にも、三番目の方向にも、四番目の方向にも、上にも、下にも、周囲にも、そして、どこでも、あたかも自分に対してのように、全てにその心を広げて住します。 ここで、彼はこの瞑想の状態をこのように理解します:「これが(流れに入った者である私に生じた神々の境地)です。 滅したもの(流れに入ることで捨てられた貪瞋痴)があります。 最上のゴール(阿羅漢果)があります。 この感覚の原野からの究極の脱出である」と。

このように知り、理解する時、彼の心は感覚の欲望の汚れ、存在の汚れ、無知の汚れから自由になります。 (阿羅漢果に達することで)解脱する時、解脱の智慧があります。 生は尽きました、神々としての生は終わりました、やるべきことはやりました、もうやることはありません、と。 彼はこのように理解します: 『以前は欲があり、これは悪いことで、今はなくなり、これは善いことです。以前は怒りがあり、これは悪いことで、今はなくなり、これは善いことです。以前は無知があり、これは悪いことで、今はなくなり、これは善いことです』と。 こうして、まさに今生でもはや彼は(渇愛の熱、貪瞋痴の炎を)消し、冷まして、渇くことはありません。 無上の喜びを経験し、(残りの寿命を)自身の中の神々のような清らかさに住します」。

Publisher's note

The Buddhist Publication Society is an approved charity dedicated to making known the Teaching of the Buddha, which has a vital message for people of all creeds.

Founded in 1958, the BPS has published a wide variety of books and booklets covering a great range of topics. Its publications include accurate annotated translations of the Buddha's discourses, standard reference works, as well as original contemporary expositions of Buddhist thought and practice. These works present Buddhism as it truly is — a dynamic force which has influenced receptive minds for the past 2500 years and is still as relevant today as it was when it first arose.

Buddhist Publication Society
P.O. Box 61
54, Sangharaja Mawatha
Kandy, Sri Lanka

(日本語訳)

Buddhist Publication Society は、ブッダの教えを広めるための公認の慈善事業です。ブッダの教えは全ての宗教の人々にとって重要なメッセージを含んでいます。

BPSは1958年に設立され、以来幅広い話題にわたる数々の書籍、小冊子を出版してきました。 出版物は、注釈がついたブッダの教えの正確な翻訳、標準的な参考書、仏教の考え方と実践の現代的な解説書を含んでいます。 これらの著作は、まさに仏教の正しい姿を表現しています。それは、過去2500年間にわたって感受性の強い心に影響を与え続けきた力強い力であり、仏教が最初に起こった時と同様に、現代でも色褪せないものです。


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The Wheel Publication No. 7 (Kandy: Buddhist Publication Society, 1987). Transcribed from the print edition in 1994 under the auspices of the DharmaNet Dharma Book Transcription Project, with the kind permission of the Buddhist Publication Society. Last revised for Access to Insight on 30 November 2013.

(日本語訳) :
以下の条件で、この著作をあらゆる媒体でコピー、再フォーマット、リプリント、再刊、再配布できます: (1) コピーなどは無料で配布すること。また、リプリントの場合は50冊を超えないこと。 (2) この著作からのあらゆる派生物(翻訳を含む)は、オリジナルの出展を明記すること。 そして (3) この著作のコピーや派生物にこのライセンス全文を含めること。 その他の場合は転載を禁じます。 このページにリンクされている文書は他の制限がある場合があります。

The Wheel Publication No. 7 (Kandy: Buddhist Publication Society, 1987). Buddhist Publication Societyの寛大な許可のもと、DharmaNet Dharma Book Transcription Projectの援助によって1994年の印刷版から書き起こされました。 Access to Insight向けの最新の改訂は2013年11月30日になされました。


初出: Mon June 29 2015 12:34 (+0900)

訳の間違い、意味が通らないなど、御指摘あれば幸いです。

商用の利用は御遠慮下さい。

Satipaṭṭhāna Vipassanā

Access to Insight Library にあるMahasi Sayadaw によ る"Satipatthana Vipassana"を訳してみたものです。

実際に訳してみて、分かり難いところもありました。勘違いや間違いがあるかも知れません。お知らせ頂けると幸いです。


翻訳者のまえがき

ウ・ヌ首相とBuddha Sasananuggaha Association会長 Thado Thiri Thudhamma ウ・テュウィン卿らのじきじきの要請で、マハーシ・セヤドー— 尊師ソーバナ大長老— は 1949年11月10日にラングーンのシュウェボにいらっしゃいました。 ラングーンHermitage Road(修道通り)Thathana Yeikthaの瞑想センターは1949年12月4日に正式にオープンし、その時マハーシ・セヤドーは15人の信者に正しいSatipaṭṭhāna Vipassanā(サティパッターナ・ヴィパッサナー) 体系の修行法を教え始められました。

センターがオープンした最初の日から、Satipaṭṭhāna Vipassanā(サティパッターナ・ヴィパッサナー)の解説の法話、その目的、実践方法、その恩恵などが、徹底的なトレーニングのコースを受けに毎日のように絶えずセンターにやってくる信者の一群ごとに教授されました。 法話は通常1時間半続き、このような法話をほぼ毎日行うことはセヤドーをお疲れさせていました。 幸いなことに、状況を改善するためにテープ・レコーダーを寄贈することをBuddha Sasananuggaha Associationが申し出てくれて、トレーニングを受けにきた15人の信者に向けてなされた1951年7月27日の法話が録音されました。 その後は、この録音された法話が日々定常的に用いられ、その前にマハーシ・セヤドーによっていくつかの予備的な注意がなされるようになりました。

それから 多くのマハーシ Satipaṭṭhāna Vipassanā(サティパッターナ・ヴィパッサナー)瞑想センターから、また広く社会からの要求に答えて、この説法は1954年に本として出版されました。 その本は今や第6版を重ねるにいたっています。ビルマ語に慣れない他の国の多くの信者からの高い関心と熱烈な要求もあったことから、今回その説法は英語に翻訳されました。

U Pe Thin (訳者)
マハーシ修行者
1957年12月


Satipaṭṭhāna Vipassanā サティパッターナ・ヴィパッサナー

Namo Buddhassa
正覚者に敬礼奉る

ブッダの教えをしっかり学ぼうとする時、全ての人にとって最も重要なのは、戒(道徳品行)(sīla)、定(集中力) (samādhi)、智慧(paṇṇa)です。疑いなく、この三つ の徳を持つべきです。

在家の人の場合は、最低限の道徳的な行いは五戒を守ることです。比丘の場合は、出家の戒律である波羅提木叉を守ることです。道徳的な行いによって戒律をよく守る人は誰でも、人間界か deva(神)の界といった幸せな境遇に生まれ変わります。

しかし、このよくある世俗的な道徳 (lokiya-sīla)は、地獄道畜生道、あるいは餓鬼道といった、恵まれない存在の低い境遇に生まれ変わってしまうことに対する安全装置にはなりません。ですので、より高い出世間的な道徳(lokuttara-sīla)を磨くことの望ましいのです。この道徳を持つ徳を完全に積むならば、低い境遇への転生からは安全になり、人間か神々の境遇に生まれ変わることで必ず幸せに生きるでしょう。ですから、誰でも、出世間の道徳のために精進することを、自分の本分とするべきなのです。

心から、そして真剣に努力する人には誰にでも、成功する望みが十分にあります。高い身分を授けれらたこの素晴らしい機会を役立て損なうのならば、それはとても残念なことです。そのような人は、疑いなく遅かれ早かれ悪い業の犠牲になり、地獄、畜生道、餓鬼道のような惨めな低い境遇に引き落とされます。そこでの寿命は何百年、何千年、何百万年におよびます。ですから、ブッダの教えに触れることは、道戒(magga sīla)と果戒(phala sīla)に励む唯一の機会なのです。

しかし、道徳的な行動だけに励むことは、薦められません。samādhi、すなわち定(集中力)を訓練することが必要です。Samādhiは安定した、あるいは落ち着き心の状態です。普通、あるいは訓練されていない心は、他のところへさまよう性質のものです。それは支配下においておくことが出来ず、あらゆる考え、思考、想像などについていってしまいます。このさまよいを防ぐには、選んだ集中する対象へ心を繰り返し随わせるべきです。訓練を積むうちに、段々と心は気が散ることを無視するようになり、心を向けた対象に固定され留まるようになります。これがsamādhiです。

定(集中力)には二つの種類があります: 世間定 (lokiya-samādhi)と出世間定 (lokuttara-samādhi)です。この二つのうち、前者は世俗的な禅定です。それは四つの色界禅定(rūpa-jhāna) — 物質に付随する禅定 — と四つの無色界禅定 (arūpa-jhāna) — 物質のない世界に付随する禅定です。これらは、呼吸への気づき、慈悲(metta)、kasiṇa瞑想などの方法のサマタ(止)瞑想 (smatha-bhāvana)の訓練で得ることが出来ます。これらへの到達によって、梵天界に生まれ変わります。梵天の寿命はとても長く、1劫年、2劫年、4劫年、あるいは8劫年続き、最長で84,000劫年に及ぶこともあります。その寿命が尽きると、梵天は人間またはdeva(神)として生まれ変わります。

もしも、ずっと道徳的な生活を送るならば、良い境遇で幸せな人生を送ることが出来ますが、執着・嫌悪・妄想による汚れから逃れることは出来ませんから、少なからず間違った行いを犯すかも知れません。すると、悪い業の餌食となり、地獄や他の惨めな低い境遇へ生まれ変わるかも知れません。こうして、世間定も確かな防護とはなりません。出世間定のために励むことが望ましいのです。それは、道(magga)と果(phala)の定です。この定を身につけるには、智慧(paññā)を育てるのが本質的です。

知恵には二つあります: 世俗的な智慧と、出世間の智慧です。近頃は、文学、芸術、科学や世俗的な物事の知識を普通、知恵と見なしていますが、このような知恵は心の開発(bhāvanā)とは全く関係ありません。それらが本当に功徳があるとは言えません。なぜなら、破壊するための多くの武器は、その種の知識によって発明されます。そして、それらの知識は、執着、憎しみやその他の悪意の影響を受けているのです。一方で、世俗的な智慧の本当の姿は、功徳だけがあって、いかなる悪影響もありません。本物の世俗的な智慧は、幸福とやすらぎの営みで用いられる知識を含んでいます。それらの知識— 経典の本当の意味、意図の知識を身につけることや、学ぶことによる知識(sutamaya paññā)・思念による知識(cintāmaya paññā)・瞑想の訓練による智慧(bhāvanamaya paññā)といった智慧の開発の三つの知識を得ること— は無害です。世俗的な智慧をもつ徳によって、良い境遇の生で幸せな一生を送ることができますが、しかしなお地獄や惨めな境遇に生まれ変わる危険を防ぎきることはできません。出世間の智慧(lokuttara-ñāñna)を育てることのみがこの危険を決定的に取り除くのです。

出世間の智慧は、道と果の智慧です。この智慧を育てるには、戒・定・慧の三つの訓練のためのヴィパッサナー瞑想(vipassanā-bhāvana)を実践する必要があります。智慧の徳が十分に育つとき、戒と定の必要な特質もまた得られています。

智慧の開発

この智慧の育て方は、物質(rūpa)とこころ(nāma)。— 生命には存在するこの二つだけの要素 — とを、それらの本当の性質を知る目的で観察することです。現代は様々な種類の機器の力を借りて物質の分析的な観察が実験室で普通に行われていますが、これらの方法ではこころを扱うことが出来ません。ブッダの方法は、機器やほかの助けを必要としません。その方法は物質もこころも両方見事に扱えます。その方法は、その人の中で起こっている物質とこころの活動にありのままに気付くことで、分析のためにその人のこころを活用します。この種の訓練を継続的に繰り返すことで、必要な集中力が得られ、また集中力が十分に鋭くなる時、物質とこころの絶え間ない消滅の過程を鮮やかに認知できるようになります。

生命は物質とこころの二つの異なるグループのみで構成されています。身体のそのままの固い物質は、物質のグループに属することがわかります。物質の現象を普通に列挙するところによれば、このグループには全部で28種類ありますが、要約すると身体は物質の集合として気付くことが出来ます。例えば、これは粘土や小麦で出来た人形と同様です。それらは粘土は小麦粉の粒子の集合にほかなりません。物質は熱、冷たさなどの物理的な条件下でその形(rūpati)を変えます。そしてそのような物理的条件下で変化することからパーリ語でrūpaと呼ばれます。それは、対象を知るという機能を全く持ちません。

アビダンマでは、こころと物質の要素はそれぞれ「対象のある状態」(sārammaṇa dhamma「対象のない状態」(anārammaṇa dhamma)に分類されます。こころの要素は対象をとり、対象を捉え、対象を知ります。その一方で物質の要素は、対象をとらず、対象を捉えず、対象を知ることががありません。こうして、アビダンマは物質は対象を知る機能を持たないことを単刀直入に述べていると見なせます。同様に、修行者(ヨギ)は「物質は知る機能を持たない」と理解します。

丸太、柱、レンガ、石や土の塊などは物質の集合です。それらは知るという機能を全く持ちません。生きている身体 — 知る機能を全く持たない — を構成している物質と同じです。死んでいる身体の物質は生きている身体の物質と同じです — 知る機能を全く持ちません。しかしながら、人々は生きている身体の物質は対象を知る機能があり、その機能は死ぬときにだけなくなる、という考えを持っています。これは本当ではありません。実際には、物質は死んだ身体であろうが生きている身体であろうが知る機能は持ち合わせていません。

では、その対象を知るとは何でしょうか? それはこころに関することで、物質に依存することを通じて起こります。それは、パーリ語で nama と呼ばれます。なぜなら、それは対象に傾く(namati)からです。こころは、思考あるいは意識としても現れます。こころは物質に依存して起こります: 眼に依存して眼識(見ること)が生じます、耳に依存して耳識(聞くこと)が生じます、鼻に依存して鼻識(嗅ぐこと)が生じます、舌に依存して舌識(味わうこと)、身体に依存して身識(触れること)が生じます。感蝕は良い物、悪い物の多くの種類があります。

身識は身体全体、内部と外部にわたる動作の広い領域に関するものです。その一方で見ること、聞くこと、嗅ぐこと、味わうことはその特定の領域を占めます — 眼、耳、鼻、舌 — それぞれは、身体のうちの非常に小さく限られたところを占めています。これらの感蝕、見ること、などはこころの要素にほかなりません。意識もまた生じます — 考え、思いつき、想像、などなど — こころに依存して。これらはすべてこころの要素です。こころは対象を知ります。一方、物質は対象を知りません。

見ること

概して人は、見ることの場合は実際に見ているのは眼だと信じています。見ることと眼は同じことだと考えています。こうも考えます:「見ているのは私です」「私がものを見ます」「眼、見ること、私は一つであり、同じ人間です」。実際には、そうではありません。眼は一つの事柄であり、見ることは別の事柄です。そして「私」「自我」というように区別する実体はありません。ただ一つ、見ることは眼に依存しているという事実だけがあります。

例えば、人が家で座っているような場合が似ています。家と人は二つの別々のものです: 家は人ではありませんし、人は家ではありません。同様に、見ることの時もそうです。眼と見ることは二つの別々のものです: 眼は見ることではなく、見ることは眼ではありません。

別の喩えをしましょう。それは、部屋の中の人が窓を開けてそこから多くのものを見ている場合のようなものです。もし「見ているのは誰ですか?実際に見ているのは窓ですか、それともその人ですか?」と尋ねるならば、答えは「窓は見る能力を持っていません; それを持っているのは見ているその人です」。もし、さらに「その人は、外を窓無しに見ることが出来るでしょうか」と尋ねるならば、答えは「窓が無くては、壁を通して見ることはできません。窓を通してのみ見ることが出来ます」。同様に、見ることの場合、眼と見ることの別々の実体があります。眼は見ることが出来ませんし、見ているのは眼ではありませんし、さらに眼が無くては見るという行為もありえません。現実には、見ることは眼に依存しています。

これで、見ることのすべての瞬間において、物質(眼)と心(見ること)のたった二つ別々の要素だけが身体の中あることが明白になりました。さらに加えて、物質の三つ目の要素 — 視覚対象もあります。ある時は視覚対象は身体の中で知覚され、またある時は身体の外で知覚されます。視覚対象を加えて、三つの要素があります。そのうち二つ(眼と視覚対象)は物質、三番目(見ること)は心です。眼と視覚対象は、物質で、対象を知る能力はありません。一方で眼は、心であり、対象と、それがどのようなものか知ることが出来ます。これで、見る瞬間においては物質と心の二つの別々の要素のみがあること、そしてこの別々の要素のペアが生じることが見ることとして知られていることがはっきりしました。

ヴィパッサナー瞑想の訓練と知識がない人々は、見ることは「自分」「エゴ」「生きる実体」「人格」に属する、あるいはそのものであるという見解を持ちます。 彼らは、「見ているのは私です」、「私は見ている」、「私は知っている」と信じています。 この種の見解・信条はパーリ語で sakkāya-diṭṭhi(有身見)と呼ばれます。 sakkāyaは物質(rūpa)と心(nāma)の一群が区別して存在していることを意味します。diṭṭhiは間違った見解や信条を意味します。 合成後sakkāya-diṭṭhi は、nāmaと rūpaについて「自分」が実際に存在すると考える間違った見解・信条を意味します。

より明確にするために、間違った見解・信条の持ち方についてさらに説明します。 見る瞬間は、実際に存在するのは目、視覚対象(これらは両方とも物質)と見ること(心)です。 nāmaとrūpaは実在しますが、それでも人はこれらの要素のグループは自分、エゴ、あるいは生きている実体であるという見解を持ちます。 それは「見ているのは私です」とか、「見られているのは私です」、あるいは「私は自分の身体を見ています」と考えているのです。 こうして、この勘違いした見解は、間違った自己に対する見解 sakkāya-diṭṭhi である、見ることが自分である見なす単純な行為をとります。

自我の間違った見解が無くならない限り、地獄道畜生道、餓鬼道といった惨めな境遇に転生する危険から逃れることを期待できません。 善行の徳によって人間、あるいは天界で幸せな生活を送っていても、いつ何時に悪行為を犯して惨めな境遇に転生することから免れません。 この理由から、ブッダは自我に対する間違った見解を完全に取り除くことこそが真剣に取り組むべきものであると指摘なさいました:

比丘は自我の見解を捨てるために気づきを保ち修行するべきです。

(sakkāya-diṭṭhippahañaya sato bhikkhu paribbaje).

説明: 誰もが老病死を避けたいと望みますが、それらの避けがたい到着を防ぐことはできません。 死後は転生が続きます。いかなる境遇への転生も望み通りになりません。 単に免れたいと望むだけで地獄道畜生道、あるいは餓鬼道への転生を防ぐことはできません。 どんな存在の境遇への転生もその人の行いの結果として生じます: 選択はできません。 こういった理由から、生と死の繰り返しsaṃsāra, (輪廻)はとても恐ろしいのです。 それゆえ、自分自身の輪廻の悲惨な状況をよく知ること、そして輪廻から脱出すること、すなわちNibbāna(涅槃)を得ることににあらゆる努力を尽くすべきなのです。

もしも、輪廻全体からの脱出が今生で不可能であるならば、少なくとも地獄道畜生道、餓鬼道への転生の繰り返しからの脱出を図るべきです。 この場合、自身の中のsakkāya-diṭṭhiを完全に取り除く努力が必要です。 sakkāya-diṭṭhiは惨めな存在の境遇への転生の根本的な原因です。 Sakkāya-diṭṭhiは聖なる道と果、すなわち三つの出世間の徳である戒定慧によってのみ完全に壊すことができます。 ですから、この三つの徳を積むことが欠かせません。 どのようにして修行するべきでしょうか。気づき、あるいは観察することで心の汚れ(kilesa)の支配から脱しなければなりません。 sakkāya-diṭṭhi、つまり間違った自我の見解から自由になるまで、全ての動作、見ること、聴くことなど、身体と心の作用に常に気づきを入れる、あるいは観察するべきなのです。

この理由から、ここでは、ヴィパッサナー瞑想の訓練を受けるようにアドバイスされます。 ヴィパッサナー瞑想の訓練を目的としてきた修行者逹は、訓練のコースを修了し、間もなく聖なる道を得るかもしれません。 そうすれば、自我の見解を完全に取り除き、地獄、畜生、餓鬼道への転生の危険からの安全を最終的に確保できるでしょう。

この点に関する訓練は、すべての見る動作に存在する要素に単純に気付く、あるいは観察することです。 すべての見る行為に際して、「見ている、見ている」と気付きます。 「気付く」、「観察する」、あるいは「見つめる」といった用語によって意味するところは、対象を明確に気づくために心を固定し続けることです。

これをする時は、視覚の対象に気づいた時、見ることの感覚に気づいた時、眼根つまり見ることをする場所に気づいた時に、見る動作を「見ている、見ている」と気づきます。 この三つのうち、いずれか一つにでもはっきりと気付くことができれば、目的にかないます。 そう出来無いならば、この見る動作は、自分として、あるいは自分に属するものとして、変わらないものとして、喜ばしいものとして、自分というものとして見なすsakkāya-diṭṭhi,を生じます。 これは、渇愛と執着といった心の汚れを呼び起こします。これは次に行為に駆り立て、その行為はさらに新しい存在への転生をもたらします。 このようにして、縁起のプロセスが働き、冷酷な輪廻の繰り返しが絶え間なく回転します。この見ることによる輪廻の回転を防ぐには、見る機会のたびに「見ている、見ている」と気付くことが必要です。

聴くことなど

同じように、聴くことの場合はただ二つの別々の要素だけがあります。すなわち物質と心です。 聴くという感覚は耳に依存して生じます。 耳と音は二つの物質の要素ですが、一方で聴く感覚は心の要素です。 これら物質と心の二つの要素を明確に知るために、聴く度に「聞きます、聞きます」と気付きをいれます。 同じようにまた、匂いをかぐ度に「かいでいます、かいでいます」、そして舌で味わう度に「味わっています、味わっています」と気付きをいれます。

身体に触れる感覚もまさに同様に綺月を入れます。 身体の全体に渡って身体的に感じることで分かる物質の要素があります。これは触れる感じを受け取るものです。 全ての触れる感覚は、好むもと好まざるとも、身体の感覚と接触することで普通は起こります。 そしてこれから身体の感覚(意識すること)が生じ、触れる度に感じたり、知ったりするのです。 触れる瞬間毎に、二つの物質の要素 — 身体の感覚と触れる対象 —と一つの心の要素 — 触れていることを知ること— があることが分かるでしょう。

全ての触れる瞬間にこれらのことを区別して知るためには、「触れている、触れている」と気付きを入れる訓練をしなければなりません。 これは触れる感覚の一般的な種類について述べているに過ぎません。 身体や手足の固さや、疲勞感を感じることや、暑さ、痛み、しびれ、うずきなどを感じることのような辛く不快を伴う特別な種類もあります。 これらの場合は感覚(vedanā)が支配的ですので、「暑さを感じている」「疲れを感じている」「痛みを感じている」など場合に応じて気付きを入れます。

手や足などを曲げたり、伸ばしたり、あるいは動かしたりする際に、それらに触れる時に多くの感覚が起こることについて述べておきましょう。 動かしたり、伸ばしたり、曲げたりするという心の欲求によって、動かしたり、伸ばしたり、曲げたりなどという物質の活動が続いて起きます。 (これらの事象を最初から気付くのは出来ないかも知れません。これらは、ある程度時間が経って、訓練により経験を積んでからようやく気付くことができます。ここでは、大まかな情報として言及しています。) 動きや変化などのの全ての活動は心によってなされます。 心が曲げる意思を持つ時、手や足の内向きの一連の動きが生じます。 心が伸ばしたり、動かしたりする意思を持つ時、一連の外向きの動き、あるいはあちこちへの動きが生じます。 それらは、それが生じ後、生じる各ポイントで消滅し、人は後で気付きます。

曲げたり、伸ばしたり、あるいは全ての動作の場合において、最初にまず一連の意図、心の動機が生じ、そして手や足の一連の物質の動きを引き起したり、させたりします。それはこわばらせることや、曲げたり、伸ばしたり、あるいはあちこちへの動きなどです。 これらの動きは、別の物質要素や身体の感覚に触れ、そして物質の動きと感覚の質とが触れる度に身体の感蝕が生じます。これは接触する感覚を感じたり知ったりすることです。 それゆえ、これらの場合、物質的な動きが支配的なのは明らかです。 支配的な要素に気付くことが必要です。 もしそうではないと、それらを「私」が行なっている動きと見なす間違った見解がきっと生じることでしょう: 「私が曲げている」「私が伸ばしている」「私の手」、「私の足」などと。 そういった間違った見解を取り除くためには、「曲がっている」「伸びている」「動いている」のように気付きを入れる訓練をします。

心基によって、考える、想像するといった一連の心の活動が生じます。一般的に言うと、身体に依存して一連の心の活動が生じます。 実際には、それぞれは心と物質の合わさったもので、心基は物質的なもので、考える・想像するなどは心に関するものです。 心と物質的なものに明確に気付くには、「考えている」「想像している」などと、それぞれの場合に気付きを入れる必要があります。

ある期間、上で示した方法で訓練を行った後は、集中力の上達があるかも知れません。もはや心がふらふら彷徨うことが無くなり、向けた対象に固定されたままになることに気付くこともあるでしょう。それと同時に、気付きの能力が相当に上達しているでしょう。全ての気付きの瞬間に、物質と心のただ二つのプロセスに気付くことでしょう: 対象への気付きをなす、対象(物質)と心の状態(心)の二つの組が一緒に生じることを。

また、観察の訓練をさらに進めると、しばらくした後には、不変なものは何もなく、全てのことが絶えまない変化の状態にあることに気付きます。 各瞬間に新しい物事が生じます。それらの各瞬間を生じる時に気付きます。 生じる全ての物事はすぐさま消えていき、そしてすぐさま別の物事が生じます。それらはまた気付きの対象となり、そしてまた消えていきます。 こうして生じて消滅するプロセスは続き、このことは不変なものは何もないことを明確に示しています。 これによって「物事は不変ではない」ことを知ります。なぜなら、物事が生じてすぐさま消滅することを見るからです。これが無常についての智慧(aniccānupassanā-ñāṇa)です。

さらに、「生じること、消滅することは望ましいことではない」ということを知ります。これは苦についての智慧(dukkhānupassanā-ñāṇa )です。 加えて、普通は身体の感覚において、だるさ、暑さ、痛みといった、多くの苦痛を経験します。それらの感覚に気づく度に、この身体は苦しみの集まりであることを感じるようになります。これもまた苦についての智慧です。

また、気付きの各瞬間において、物質と心の要素はそれらのそれぞれの性質と条件に応じて生じるものであり、望みに応じて生じるものではないことを理解します。 こうして、「これらは、コントロールできない要素である、これらは人や生きている存在ではない」と知ります。これは無 我についての智慧anattānupassanā-ñāṇa です。

これらの無常、苦、無我についての智慧を完全に得ることが出来ると、道智(magga-ñāṇa)および果智(phala-ñāṇa)が十分に育ち、涅槃の実現を勝ち取ります。涅槃への最初の段階を勝ち取ることで、みじめな存在への転生から開放されます。それゆえ、すべての人はその最初の段階、不幸は転生に対する最低限の手段である、預流果の道へ励むべきなのです。

初心者のエクササイズ

ヴィパッサナー瞑想の実際的な訓練法は、六つの感覚の扉において連続して生じる、見ること、聴くこと、などに気付く、あるいはそれらを観察する、あるいは味わうことであることは既に説明してきました。 しかし、初心者がそれらの連続して生じる出来事をすべて追うことは出来ないでしょう。というのも、初心者の気付き(sati)、定(samādhi)、慧(ñāṇ)はまだとても弱いからです。 見ること、聴くこと、嗅ぐこと、舌で味わうこと、触れること、そして考えることの瞬間は、とても素早く生じます。 見ることが聴くことと同時に生じたり、聴くことが見ることと同時に生じたり、見ることと聴くことが両方生じたり、見ること、聴くこと、考えること、想像することがいつも一緒に生じたりするように見えます。 それらは非常に素早く生じるため、どちらが最初で、どちらが次かを区別することは不可能です。

実際には、見ることは聴くこととは同時に生じませんし、聴くことは見ることと同時に生じることはありません。 それらの出来事は、一度に一つだけ生じます。 しかし、訓練を始めたばかりで気付き、定、慧を十分に開発していない修行者は、それらの瞬間を連続して順番に生じる別々のものとして観察することは出来ません。 ですので、初心者はたくさんのことを追う必要はありません。初心者はいくつかの事についてだけ始めればよいのです。

見ることや聴くことは、その対象へ注意が向けられた時だけに生じます。 もし視界や音に何の注意も払わなければ、見ることや聴くことが生じる瞬間が全くないまま時を過ごします。 嗅ぐことはめったに生じません。 (舌で)味わうことは食べている時だけに生じます。 見ること、聴くこと、嗅ぐこと、そして(舌で)味わうことの場合、修行者はそれらが生じる時に気付くことができます。 しかし、身体の感蝕はずっとあります。 普通それらはいつでも明白に存在します。 座っている間、身体のこわばる感蝕やその姿勢での硬さの感覚は明確に感じられます。 ですので、注意は座っている姿勢に定め、「座っている、座っている、座っている」と気づきを入れます。

座ること

座ることは、一連の身体の活動から構成される身体の直立した姿勢です。その身体の活動は一連の心の活動で構成される意識によって引き起こされるものです。 それはあたかも、内部の空気の抵抗を通じて球の形状を保とうとする膨らんだゴムボールの場合に似ています。 座る姿勢は身体の活動の連続的なプロセスを通じて直立した姿勢を保っている身体と同様です。 この身体のような重い負荷を引っ張りあげ、直立した位置を保つのに、相当なエネルギーが必要です。 一般的に人々は、身体を起こし立った位置に保つのは筋力によると考えています。 ある意味、この考えは正しいです。なぜなら筋肉、血、肉そして骨は物質的なもの以外の何ものでもないからです。 身体を直立した姿勢に保つ固さの要素は、物質的なグループに属し、ゴムボールの中の空気のように、身体の中の筋肉、肉、血などの中に生じます。

硬さの要素は風の要素 vāyo-dhātu として知られています。 硬さの形の風の要素によって、身体は垂直の位置に保たれます。風の要素は連続的に存在します。 眠気やだるさの時、硬さの形状の新しい物質の供給が遮断されてしまうために、横に倒れてしまいます。 ひどいだるさや眠気の心の状態はbhavaṇga , 「有分」 受動的な潜在意識の流れです。 bhavaṇgaの過程では、心の活動はなく、この理由から、寝ている時やひどいだるさの時は身体が横たわります。

起きている時間帯には、強く注意している心の活動が連続して生じ、これらによって風の要素が硬さの形で連続的に生じます。 これらの事実を知るために、身体の姿勢に「座っている、座っている、座っている」のように集中して気付きを入れることが不可欠です。 これは、身体の硬さの感蝕を特別に探して気付きを入れることを意味するわけではありません。 気付きは座っている姿勢の全体の形だけに固定するべきです。つまり、曲げている身体の下半分と直立している上半身です。

単に座っている姿勢を観察する練習は簡単過ぎて、さほど努力が必要無いと分かるかも知れません。 そのような状況下では、精進(viriya)が足りず、定(samādhi)が過剰です。 相当な長い時間、繰り返し「座っている、座っている、座っている」と気付きを入れていると、概して気怠くなり、実行したくなくなります。 一般的に怠けは、定が過剰で、精進が十分でない時に生じます。 これはまさに惛沈睡眠(thī-namiddha)の状態です。

さらに精進を育てる必要があります。そのためには、気付きの対象の数を増やすべきです。 「座っている」と気付きを入れた後、触れている感覚がある身体の箇所に注意を向け、「触れている」と気付きを入れます。 足でも、腕でも、尻でも、触れている感覚がはっきりと感じられる箇所であればどこでもこの目的に叶います。 例えば、身体の座っている姿勢に「座っている」と気付きを入れた後、触れている感覚を感じている箇所に「触れている」と気付きを入れます。 こうして、これら座っている姿勢触れている箇所の二つの対象を用いて気付きを交互に繰り返します。「座っている、触れている、座っている、触れている、座っている、触れている」というように。

「気付くこと」「観察すること」、「見つめること」という語は、ここでは対象へ注意を固定することを意味するのに使っています。 訓練は単純に、「座っている、触れている」というように、気づくこと、観察すること、見つめることです。 瞑想を実践した経験がある人にとっては、この訓練は簡単に始められると思うかも知れません。しかし、以前に経験のない人には、最初はいささか難しく思うかも知れません。

膨らみ・縮み

この訓練の初心者にとってよりシンプルで容易なやり方はこうです: 呼吸する度に、お腹に縮み・膨らみの動きが生じます。 初心者はこの動きに気付きを入れる訓練から始めるべきです。 この縮み・膨らみの動きは観察が容易です。なぜなら、これは大雑把な動きであり、それゆえ初心者にぴったりです。 学校でも簡単な授業は学習しやすいように、ヴィパッサナー瞑想でも同様です。 初心者は、シンプルで容易な訓練の方が定と智慧を育てることがより容易であると分かるでしょう。

ここでもう一度言うと、ヴィパッサナー瞑想の意図は身体の最も目立つ要素を観察する訓練を開始することです。 心と物質の二つの要素のうち、前者は微妙ではっきりせず、一方後者は大雑把でより目立ちます。 ですから、気付きの瞑想の実践者のための普通の順序として、最初はまず、物質の要素を観察する訓練から始めます。

物質に関して言及すると、所造色(upādā-rūpa)は微妙ではっきりしませんが、一方で四つの大きな要素(Mahā-bhūta-rūpa)— 地、水、火、風 —は大雑把でより目立ちます。 ですから、観察の対象としての優先度は後者の方が高いのです。 膨らみ・縮みの場合、目立つ要素は風の要素すなわちvāyo-dhātuです。 観察の最中に気付きを入れるこわばりやお腹の動きは風の要素の機能に他なりません。 こうして、風の要素は最初から感知できると分かります。

Satipaṭṭhānā Sutta(*四念処経)の教えによれば、歩いている時は歩いている動きに、立っている時、座っている時、横になって時は、それぞれ立っている活動、座っている活動、横になっている活動に気付きを入れましょう。 また、他の身体の活動に対しても、それらが起こる度に気付きを入れましょう。 このことに関連して、注釈書では、他の三つの要素よりはむしろ風の要素に対して主に気付きを入れるべきと述べられています。 実際には、身体の全ての活動は四つの大きな要素が支配的で、それらのうちのどれを感知することも大事です。 座っている時は、呼吸する度にはっきりと膨らみと縮みの二つの動きが起きます。それらの動きに気付きを入れることから始めるべきです。

概説として、ヴィパッサナー瞑想の体系の基本的な特徴は説明しました。 これから、基礎訓練の概要を説明します。

基礎訓練の概要

膨らみと縮みを観察する時は、修行者は心をお腹に保ち続けなさい。 そうすると、息を吸う時のお腹の上へ向かう動き、つまり膨らみに、そして吐く時のお腹の下へ向かう動き、つまり縮みが分かるようになります。 上に向かう動きに「膨らみ」、下に向かう動きに「縮み」と気付きを入れなさい。 心を保ち続けるだけでは、これらの動きをはっきり気づけない場合は、両手をお腹に当てなさい。

修行者は自然な呼吸を変えようとしていけません。 息を溜めたゆっくりの呼吸、速い呼吸、あるいは深い呼吸もしようとしていけません。 呼吸の自然な流れを変えようとすると、すぐに疲れてしまいます。 ですから、自然な呼吸を保ちなさい。そうしてから膨らみと縮みの観察に進みなさい。

お腹の上向きの動きが起こる時に「膨らみ」と気付きを入れなさい。そして、お腹の下向きの動きがある時に「縮み」と気付きを入れなさい。 これらの気付きの言葉は声に出してはいけません。 ヴィパッサナー瞑想では、対象を認識することが大事です。用語や名前で認識することではありません。 ですから、修行者は膨らみの動きの始めから終わりまで、縮みの動きの始めから終わりまで、あたかもこれらの動きを目で実際に見ているかのように、気付きに全ての努力を傾けることが必要です。 膨らみが起きた時にすぐに、その動きのすぐ近くで動きを認識しなさい。あたかも石が壁に当たる時のように。 膨らみの動きが起こる度毎に、一緒に気付きを入れなさい。 同様に、縮みの動きが起こる度毎に、一緒に気付きを入れなさい。

他に顕著な対象がない時は、修行者はこれらの二つの動きに、「膨らみ、縮み、膨らみ、縮み、膨らみ、縮み」というように、気付きの訓練を続けなさい。 この訓練にこのように取り組んでいると、心が逸れていく時があります。 定が弱い時は、心をコントロールするのがとても難しいです。 膨らみと縮みの動きに(心を)向けても、心はそれらに留まらず、別のところへ彷徨ってしまいます。 この彷徨っている心を放っておいてはいけません。 彷徨っていることに気づいたらすぐに「彷徨っている、彷徨っている、彷徨っている」と気付きを入れます。 1、2回気付きを入れると、たいてい心が彷徨うのは終わります。そうしたら、「膨らみ、縮み」と気付きを入れる訓練を続けなさい。 もしまた心が別の場所に伸びていることが分かったら、「伸びている、伸びている」と気付きを入れなさい。 そうして、(お腹の動きが)はっきりしたらすぐに「膨らみ、縮み」の気付きを入れる訓練に戻りなさい。

誰かと会っていることを想像している時は、「会っている、会っている」と気付きを入れなさい。その後に通常の訓練に戻りなさい。 想像した相手と話をしていることを想像していることに気づく時があります。その時は「話している、話している」と気付きを入れなさい。 この本当の目的は、起こる全ての心の動きに気付くことです。 例えば、考えている時は「考えている」、そして「思い出している」「計画している」「覚えている」「聞いている」「怠さを感じている」「幸せを感じている」「イライラしている」など、それぞれの動きが起こる時毎にそれぞれの場合に応じて気付きを入れなさい。 心の活動を観察し、気付きを入れることはCittānupassanā心随観と呼ばれます。

ヴィパッサナー瞑想の実践について知らない人々は、心の本当の状態を知る姿勢にありません。 これは自然に、「人格」「自己」「生きている実在」という間違った見解を彼らの心に呼び込みます。 彼らはたいてい「想像しているのが私」「私が考えている」「私が計画している」「私が覚えている」などと思っています。 彼らは、子供のころから大人になるまで育ち続けた生きている実在が存在する、と信じています。 実際にはそういった生きている実在のようなものは存在しません。そうではなく、心の要素要素がそれぞれ一度にひとつずつ、連続して生じる一連のプロセスがあるのです。 ですから、観察の訓練は、この心と身体の複合体の本当の性質を発見する目的のために行うものです。

心と、その生じ方に関して、ブッダはダンマパダ(Dhammapada)第37偈で述べておられます::

Dūraṅgamaṃ ekacaraṃ,
asarīraṃ guhāsayaṃ;
Ye cittaṃ saṃyamessanti,
mokkhanti mārabandhanā.

遠くに旅立つ、独りでで彷徨う、
混沌とし、洞窟に潜む。
心を御するものが
マーラの束縛から確実に自由になることができる

遠くに旅立つ. たいてい、心は遠く広く彷徨います。 修行者が瞑想部屋で観察の訓練をしている最中に、心が遠くの場所、街などたびたび彷徨うことにしばしば気付きます。 以前に一瞬でも考えたり想像して覚えている場所なら、どんな遠い場所でも心が彷徨うことが出来ることにも気付きます。 この事実は観察によって発見されることです。

独りで. 心は瞬間から瞬間に、連続して単独で生じます。 この事実に気付かない人は、人生や存在の間に一つの心が存在すると信じています。 こういった人たちは、心がどの瞬間にもいつも生じていることを知りません。 これらは、見ること、聞くこと、匂いを嗅ぐこと、味わうこと、触れること、考えることが過去も現在も同じ心に属していて、見ること、聞くこと、触れること、知ることなど、これら三つ四つが同時に生じていると考えます。

これらは間違った見解です。 一つの心の動きが生じ消えていくことが、次から次へと連続して起きているのです。 これはかなり訓練を積んでから理解できるようになります。 想像している場合や計画している場合は明確に理解できます。 想像していることは、「想像している、想像している」と気付きを入れるとすぐに消えます。また、計画していることは「計画している、計画している」と気付きを入れるとすぐに消えます。 生じて、気付きを入れて、消えていくこれらの瞬間は連続しているビーズのようです。 前の心は、後の心ではありません。 それぞれは別々のものです。 こういった現実の性質は各個人が理解することが可能ですし、この目的のために観察の訓練に取り組みなさい。

混沌として. こころは実態はなく、形はありません。 物質の場合のように区別が簡単ではありません。 物質の場合、身体、頭、腕、足などはとてもはっきりしていて、簡単に気付くことができます。 物質が何かと尋ねられるならば、物質は手に触れて示すことができます。 それにひきかえ、心は描写することが簡単ではありません。なぜなら、実態も形もないからです。 このため、心に関する実験室での分析的な実験は不可能なのです。

しかし、対象を認識することして説明するならば、心を完全に理解することができます。 心を理解するには、心が生じる全ての瞬間の心を観察する必要があります。 観察が相当上達すると、対象に心が近づく様が明確に理解されます。 それはまるで対象に向かって心が飛びつく瞬間のようです。 このように、心の本当の性質を理解するためには、観察をする必要があります。

洞窟に潜む. 心は心基と身体にある感覚の門に依存していて、洞窟に隠れていると言われます。

心を御するものが
マーラの束縛から確実に自由になることができる
心は生じる度に観察しなさいと言われています。 こうして、心は観察することによって制御できます。 心の制御に成功することで、修行者は、死の王である、マーラの束縛から自由になることができるのです。 これで、心が生じる瞬間毎に気付きを入れるのが大事であることが分かるでしょう。 気付きを入れるとすぐに、その心は消えてなくなります。 例えば、「しようと思っている、しようと思っている」と1、2回気付きを入れることで、すぐに、そのしようとしている心は消えることが分かります。 そうしたら、「膨らみ、縮み、膨らみ、縮み」に気付きを入れるいつもの訓練に戻りなさい。

いつもの訓練に取り組んでいる最中に、唾を飲み込みたくなるかも知れません。 「欲している」、唾を集めている時は「集めている」、飲み込んでいる時は「飲み込んでいる」、と生じる順番に連続して気付きを入れなさい。 このように観察する理由は、「飲み込もうと欲しているのが私である」、「飲み込んでいるのが私である」と自我に執着する恐れがあるからです。 実際には「飲み込もうと欲している」のは心であり、「私」ではありません。また「飲み込んでいる」のは物質であり、「私」ではありません。 その瞬間には心と物質だけが存在しています。 このように観察することで、実際の物事のプロセスをはっきり理解できるのです。 また、唾を吐き出す時は、唾を吐き出したい時に「欲している」、首を曲げている時(これはゆっくりやりなさい)は「曲げている」、見ている時は「見ている、見えている」、吐き出している時は「吐き出している」と気付きを入れなさい。 その後、「膨らみ、縮み」のいつもの訓練を続けなさい。

長く座っていると、こわばり、暑さなどの身体の不快な感覚が生じます。 これらの感覚は、生じた時に気付きを入れなさい。 こわばりを感じている時は「こわばり、こわばり」、暑さを感じている時は「暑さ、暑さ」、痛みを感じている時は「痛み、痛み」、ちくちくを感じている時は「ちくちく、ちくちく」、疲れを感じている時は「疲れ、疲れ」というように、心をそれらの箇所に固定して気付きを入れなさい。 これらの不快な感覚はdukkha vedanāで、これらを観察することはvedanānupassanā,受随念です。

これらの感覚に関する知識が無いと、「私がこわばりを感じている」「私が痛みを感じている」「私は前は気分が良かったが、今私が不快と感じている」というように一つの自我があるかのように、自分の人格、自我があるという間違った見解に執着してしまいます。 実際には、不快な感覚は身体の嫌な印象によって生じます。 電球がエネルギーの絶え間ない供給によって点灯し続けることが可能であるように、感覚も同様です。嫌な印象と接触する度に新たに生じるものなのです。

これらの感覚をはっきり理解することが大事です。 「こわばり、こわばり」「暑さ、暑さ」「痛み、痛み」と気付きを入れている最初は、これらの嫌な感覚が強くなっていると感じるかも知れません。そして、姿勢を変えたいという気持ちが起こることに気付くでしょう。 この心に対して「欲している、欲している」と気付きを入れなさい。 そうして、感覚に戻り、「こわばり、こわばり」や「暑さ、暑さ」などのように気付きを入れなさい。 このような調子で、忍耐強く観察することで、不快な感覚は消えてなくなります。

忍耐が涅槃に導くと言われています。 このことは、観察することに対して、他のことよりも、明らかにより当てはまります。 観察には相当の忍耐が必要です。 もしも修行者が不快な感覚に忍耐強く耐えらず、観察の最中に頻繁に姿勢を変えるならば、定を得ることは期待できないでしょう。 定なしでは、ありのままに見る智慧vipassanā-ñāṇaを得ることはあり得ません。ありのままに見る智慧がなければ、道を得ること、果、涅槃を得ることは叶いません。

忍耐は観察する上でとても大事です。 身体の不快な感覚に耐えるのに、最も必要なのは忍耐です。 忍耐を訓練するの必要な外部の邪魔というものは、ほとんどありません。 これはkhantīsaṃvara忍耐の防御の実行を意味します。 不快な感覚が生じた時は姿勢をすぐに変えてはいけません。それらの感覚に「こわばり、こわばり」「暑さ、暑さ」などのように気付きを入れなさい。 そういった好ましくな感覚は普通にあることで、消えてなくなります。 強い定の場合、強い痛みは忍耐でもって気付きを入れるとすぐに消えることが分かります。 苦しみや痛みが過ぎ去った後は、「膨らみ、縮み」と気付きを入れるいつもの訓練を続けなさい。

一方で、どんなに忍耐強く気付きを入れても、痛みや不快な感覚がすぐに消えないこともあります。 そういった場合は、姿勢を変えるしかありません。 もちろん、最も強い力に従いなさい。 定が十分強くないと、強い痛みはすぐに消えないでしょう。 そういう状況下では、姿勢を変えたい心がしばしば生じることに気付きます。その心には「欲している、欲している」と気付きを入れなさい。 その後、前に動く時に「運んでいる、運んでいる」と気付きを入れなさい。

これら身体の動作はゆっくり行いなさい。そして、そのゆっくりした動きに寄り添い、「運んでいる、運んでいる」「動かしている、動かしている」「触っている、触っている」のように、連続したプロセスの順番に気付きを入れなさい。 さらに、動いている時は「動いている、動いている」、座る時は「座っている、座っている」と気付きを入れなさい。 もし、姿勢を変える一連の動作を終えて、他に気付きを入れることが無くなったら、「膨らみ、縮み」と気付きを入れるいつもの訓練を続けなさい。

間に中断や休止を入れてはいけません。 ひとつ前の動作への気付きと、その次の動作への気付きは、切れ目なく行いなさい。 同様に、ひとつ前の定とその次の定も切れ目なく、一つ前の智慧とその次の智慧も切れ目なく行いなさい。 このようにして、気付き、定、智慧が徐々に育ってゆき、完全に開発されることで、道果を完成することができます。

ヴィパッサナー瞑想の実践では、火を起こそうとしている人の喩えに従うのが大事です。 マッチを使う前の時代では、僅かな中断もなく二つの枝を擦り続ける必要がありました。 枝が熱くなればなる程、より頑張りが必要で、絶え間なく擦らなくてなりません。 火がついた時にはじめて休憩をとる自由になります。 同様に修行者は、一つ前の気付きと次の気付きの間に、そして一つ前の定とそれに続く定の間に、中断を入れないようにしっかり励みなさい。 痛い感覚に気付きを入れたら、「膨らみ、縮み」に気付きを入れるいつもの訓練に戻りなさい。

いつもの訓練に取り組んでいる最中に、今度は身体のどこかにむず痒い感覚を感じるかも知れません。 その時は、その箇所に心を固定し、「痒み、痒み」と気付きを入れなさい。 痒みは不快な感覚です。 それを感じるとすぐに、擦ったり掻いたりしたいという心が生じます。 擦ったり掻いたりする前に、その心に「欲している、欲している」と気付きを入れなさい。そして、痒みに戻り「痒み、痒み」と気付きを入れなさい。 このように観察していると、痒みはほとんどの場合消えてなくなりますから、いつもの「膨らみ、縮み」の訓練に戻りなさい。

一方、もしも痒みが消えて無くならなくて、擦ったり掻いたりすることが必要であれば、「欲している、欲している」と心に気付きを入れて、連続する段階を観察しなさい。 手を上げる時に「上げている、上げている」、痒い箇所に手が触れる時は「触れている、触れている」、擦ったり掻いたりする時は「擦っている、擦っている」「掻いている、掻いている」、手を引っ込めている時は「引っ込めている、引っ込めている」、身体に手が触れる時は「触れている、触れている」と絶え間なく気付きを入れなさい。そうしてから、いつもの「膨らみ、縮み」の観察に戻りなさい。 姿勢を変えるどんな場合でも、連続する動作の観察を同様に注意して行いなさい。

こうして観察に注意深く取り組んでいると、身体の痛みや不快な感覚はひとりでに生じると分かるようになります。 普通は、ちょっとした不快な感覚、疲れ、暑さで、それらに注意しないまま、すぐに姿勢を変えてしまいます。 痛みのたねが育ち始める間に、あまりに不注意に姿勢を変えてしまうのです。 こうして、痛みの感覚がはっきり分かるようになりません。 この理由から、概して、姿勢は痛みの感覚を視界から隠してしまうと言われています。 一般的に人々は昼も夜もずっと良い感覚であると思っています。 彼らは、危険な病気に襲われた時だけに痛みの感覚が生じると考えます。

実際は普通の人々が考えていることとは逆です。 誰でも、座った姿勢のまま、動かず変えずどのくらい保つことができるか試して見なさい。 すぐに、5分から10分もすれば不快であると分かるでしょう。さらに15分や20分後には耐え切れないと思い始めるでしょう。 頭を上げたり下げたり、手や足を動かしたり、身体を前後に揺らすなどして、仕方なく姿勢を動かしたり、変えたりするでしょう。 短い時間のうちに多くの動きが生じ、たった一日の長さでも数えてみれば、その数はとても大きなものです。 ですが、まったく注意を払わないために、この事実に気づいていないようです。

どんな場合もそんな調子です。ですから、動作に常に気付きを入れ、観察に取り組む修行者の場合は、身体の印象の各性質にはっきりと気付きを入れなさい。 修行者は、それらが完全に見えるようになるまで観察しているので、それぞれ感覚の性質は完全に明らかにせざらるを得ません。

痛みの感覚が生じても、修行者は気付きを入れ続けます。 普通は姿勢を変えたり動かしたりしようとしません。 変えたいという心が生じた時、彼は「欲している、欲している」と気付きを入れ、その後また痛みの感覚に戻り気付きを入れ続けます。 痛みの感覚が耐え切れないと分かった時だけ、彼は姿勢を変えたり動かしたりします。 この場合、彼は欲している心に気付きを入れることから始めて、動きのプロセスの各段階に注意深く気付きを入れるように進めます。 こうして、もはや姿勢は痛みの感覚を隠すことが出来ないのです。 しばしば、修行者は痛みの感覚があちこち動きまわることが分かったり、暑い感覚、疼く感覚、むず痒い感覚、身体全体に多くの痛みの感覚などを感じることがあります。 こうして、痛みの感覚が優位であることが分かります。なぜなら姿勢はそれらを遮ることが出来ないからです。

もし、座る姿勢から立つ姿勢へ変えようとしているならば、まずしようとしている心に「しようとしている、しようとしている」と気付きを入れなさい。その後、手や足の準備に関して、「上げている」、「動かしている」、「伸ばしている」、「触れている」、「押している」などのように気付きを入れて進みなさい。 身体が前に揺れる時は、「揺れている、揺れている」と気付きを入れなさい。 立ち上がる途中で、上がる動作だけでなく、身体の軽さの感覚も生じます。 それらの要素に注意を固定して「立ち上がっている、立ち上がっている」と気付きを入れなさい。 立ち上がる動作はゆっくり行いなさい。

訓練の間、修行者は全ての動作を、弱く病気の人のように、弱々しくゆっくりと行っていることは明らかです。 恐らく、腰痛を患っている人の場合が、この例にはよりぴったりでしょう。 この病人は痛みを避けるためにいつも注意深く、ゆっくり動く必要があります。 同様に、修行者は全ての動作をゆっくり動かす続けることに努めなさい。 スローモーションが気付き、定、智慧を掴むのに必要です。 今までずっと不注意に生きてきた人が身体に心を保とうと真剣に訓練を始めるのです。 これはほんの最初です。そして、身体と心の動きが最高速度のギアで動いているのに対して、その人の気付き、定、智慧は適切に準備がなされていないのです。 こうして、気付きと智慧が追いつけるように、最高速ギアから一番低いギアにするのが必須なのです。 ですから、いつでもスローモーションの訓練が望ましいのです。

さらに加えて修行者は、訓練の間ずっと、目が不自由な人のように振る舞いなさい。 慎みが無い人は、いつも気まぐれにものや人を見るので、品よく見えないでしょう。 また、安定した静寂な心の状態を得ることも出来ないでしょう。 一方で、目の不自由な人は、落ち着いて様子で、伏し目がちに静かに座っています。 目が不自由で見えませんから、その人はどの方向に対しても、ものや人に視線を向けることはありません。 誰かが近くに来て話しかけたとしても、その相手に向き直ったり見たりは絶対にしません。 この落ち着いた態度は真似する価値があります。 観察の実践を行っている間、修行者は同様に振る舞いなさい。 どこも見てはいけません。 心を観察の対象にだけ向けなさい。 座っている姿勢の時は、「膨らみ、縮み」の気付きに集中しなさい。 近くで奇妙なことが起きたとしても、それを見てはいけません。 「見えている、見えている」と気付きを入れなさい。そして「膨らみ、縮み」の気付きのいつも訓練を続けなさい。 修行者はこの訓練に高い敬意を持って、失礼ながら、目が不自由な人と間違えられるように実行しなさい。

この点では、何人かの女性の修行者は完璧でした。 彼女達は教えに従って、恐れながら訓練を注意深く行っていました。 彼女たちはとても落ち着いた態度で、常に観察の対象に集中していました。彼女たちは周りを見たりしませんでした。 歩く時は、彼女たちは足取りに常に集中していました。 その足取りは軽く、滑らかで、そしてゆっくりでした。 すべての修行者は彼女たちの例を見習いなさい。

また、修行者は耳が不自由な人のように振る舞うことが必要です。 普通は、何か音を聞くと、人はすぐに音がする方に向いて見たり、話しかけてきた人に向き直って返事をします。 これは落ち着いた態度ではありません。 一方、耳が不自由な人は落ち着いた態度で振る舞います。 耳が不自由な人は、聞こえませんので、どんな音や話にも注意を払いません。 同様に、修行者は、重要でない話に注意を払わっていないかのように振る舞いなさい。あるいはどんあ話しかけやおしゃべりにも意図して聞かないように振る舞いなさい。 もし、音は話が聞こえる時は、すぐに「聞こえている、聞こえている」と気付きを入れ、その後「膨らみ、縮み」の訓練に戻りなさい。 この観察に熱心に取り組み、耳が不自由な人と間違えられるくらいになりなさい。

修行者にただ一つ大事なことは観察を一心に実行すること、と思い出しなさい。 見えたり、聞こえたりする他のことは大事ではありません。 それらが奇妙だったり興味を引いても、注意を払ってはいけません。 何かが視界に入っても、見えていないかのように無視しなさい。 同様に、声や音も聞こえないかのように無視しなさい。 身体の動作の場合は、病気でとても弱い人のようにゆっくり弱々しく振る舞いなさい。

他の訓練

歩くこと

身体を立つ姿勢に変える行為はゆっくり行うように強調しました。 まっすぐ立った姿勢になったら、「立っている、立っている」と気付きを入れなさい。 周囲を見回してしまったら、「見ている、見えている」と気付きを入れなさい。歩く時は「右足、左足」または「歩いている」と気付きを入れなさい。 足を出す毎に、足を持ち上げて足を下ろす間の片足にだけに注意を固定しなさい。

早い歩みや、長い距離を歩く時は、一歩ごとに「右足、左足」あるいは「歩いている、歩いている」と気付きを入れなさい。 ゆっくり歩く時は一歩を三つのセクションに分けなさい — 上げている、運んでいる、下ろしている。 訓練の最初のうちは、一歩を二つのパートに分けなさい。足の上向きの動きの最初から終わりまで「上げている」、そして足の下向きの動きの最初から終わりまでを「下ろしている」というように。 「持ち上げている、置いている」と気付きを入れる最初の段階の訓練については以上です。

普通は、片足を下ろして「下ろしている」と気付きを入れる時、もう片方の足が次の一歩を始めて持ち上がります。 こういう風にしてはいけません。 最初の一歩が終わってから次の一歩は始めなさい。最初の一歩に対して「上げている、下ろしている」、次の一歩に対して「持ち上げている、置いている」というように。 二、三日後にこの訓練が簡単にできるようになったら、修行者は「上げている、運んでいる、下ろしている」と三つのセクションで気付きを入れる訓練を行いなさい。 差し当たっては、速く歩く時は「右足、左足」か「歩いている、歩いている」と気付きをいれる、ゆっくり歩く時は「上げている、下げている」と気付きをいれる訓練を始めなさい。

座ること

歩いていると、座りたくなるでしょう そういう時は「欲している」と気付きを入れなさい。 目をあげた時は「見ている、見えている、見ている、見えている」、 座る場所に向かっている時は「上げている、下げている」、止まっている時は「止まっている、止まっている」、向きを変えているときは「回っている、回っている」と気付きを入れなさい。 座りたいと感じる時は「欲している、欲している」と気付きを入れなさい。 座る動作においては、身体の重さと下向きの動きが生じます。 これらの要素に注意を固定し「座っている、座っている、座っている」と気付きを入れなさい。 座った後、手足の位置を整える動きがあるでしょう。 それらには「動かしている」「曲げている」「伸ばしている」などと気付きを入れなさい。 他にやることがなくなり、静かに座ったら、いつもの「膨らみ、縮み」の訓練に戻りなさい。

横になること

観察の途中で痛みや疲れや暑さを感じたなら、それらに気付きを入れて、その後「膨らみ、縮み」に気付きを入れるいつもの訓練に戻りなさい。 眠気を感じたら「眠気、眠気」と気付きを入れ、横になる体勢になる動作の全てに気付きを入れることに移りなさい。 手足の位置を変える時は「上げている、押している、動かしている、支えている」、 身体を傾けているときは「傾けている」、 足を伸ばしている時は「伸ばしている、伸ばしている」、 身体を倒して横になる時は「横になっている、横になっている、横になっている」と気付きを入れなさい。

この取るに足りない横になるという行為も大事で、無視してはいけません。 このような短い間であっても解脱を得るどんな可能性もあります。 定と智慧を完全に育てたならば、曲げたり伸ばしたりする今の瞬間にも解脱を得られます。 このようにアーナンダ尊者はまさに横になる瞬間に阿羅漢果を得られたのです。

ブッダの般涅槃から四ヶ月経った最初の頃に、ブッダの全ての教えを集め分類し、吟味し、確認し、暗唱する比丘達の第一結集の開催が計画されました。 その時この仕事に500人の比丘が選ばれました。 このうち499人の比丘は阿羅漢で、アーナンダ尊者はsotāpanna預流果でした。

他の比丘達と同じように阿羅漢として結集に出席するために、アーナンダ尊者は結集の前の日に瞑想に最大の努力をなさいました。 それはSāvaṇa(8月)の4度目の下弦の月の時でした。 身体の気付きに取り組み、夜通し歩く瞑想を続けておられました。 それは「右足、左足」あるいは「歩いている、歩いている」と気付きを入れるやり方と同じだったかも知れません。 尊者は、このように一歩々々の心と物質のプロセスを真剣に観察することに取り組み、翌日の夜明けになりましたが、まだ阿羅漢果を得られませんでした。

Then the Venerable Ananda thought: そして、アーナンダ尊者はこのようにお考えになりました: "I have done my utmost. Lord Buddha has said: 'Ananda, you possess full perfections (paramis). Do proceed with the practice of meditation. You will surely attain Arahatship one day.' I have tried my best, so much so that I can be counted as one of those who have done their best in meditation. What maybe the reason for my failure?" 「私は最大限を尽くしました。世尊はこうおっしゃいました:『アーナンダよ、あなたは(pāramī)波羅蜜を完全に得ました。 瞑想の実践に進みなさい。 あなたは、きっと一日で阿羅漢果を得ますよ』と。 瞑想でもっとも最善を尽くした者の一人として見なされるほど、私は最善を尽くしました。 私の失敗の理由は何なのでしょうか。」

その時、尊者は思い出されました:「ああ、私は夜通し歩く瞑想だけに熱中し過ぎていました。精進が過多で、定が足りていません。定は静寂にとても大事です。 精進と定のバランスをとるために歩く実践を止めて、横になった姿勢での観察に移りましょう」と。 アーナンダ尊者は部屋に入られ、ベッドに腰掛けて、横になろうとされました。 この横になる瞬間、つまり「横になっている、横になっている」と観察している瞬間に、尊者は阿羅漢果を得られたのだと言われています。

この阿羅漢果を得た様子は注釈書には驚くべき出来事として記されています。なぜなら、立っている、座っている、横になっている、歩いているといった四つのよくある姿勢ではないからです。 解脱の瞬間、アーナンダ尊者は立っている姿勢と厳密に見なせません。なぜなら、尊者の足は床から離れていたからです。また座っていたとも見なせません。なぜなら、尊者の身体は傾いていて枕にとても近くなっていたからです。また、横になっていたとも見なせません。なぜなら、尊者の頭は枕に触れておらず、身体も横になっていなかったからです。

アーナンダ尊者は預流果でしたので、三つの高い段階を育てる必要がありました — 一来道、一来果、不還道、不還果、そして阿羅漢道、最終的な阿羅漢果です。 これは瞬間に起こりました。 ですから観察の訓練は、気の緩みや怠けなしに、最新の注意をもって取り組む必要があります。

横になる動作の時は、十分に注意して観察しなさい。 眠気を感じ、横になりたいと欲した時は、「眠気、眠気」「欲している、欲している」と気付きを入れなさい。 手を上げているときは「上げている、上げている」、 伸ばしている時は「伸ばしている、伸ばしている」、 触れているときは「触れている、触れている」、 押している時は「押している、押している」、 身体を傾けて、横にする時は「横になっている、横になっている」と気付きを入れなさい。 横になる動作そのものは、とてもゆっくりと行いなさい。 枕に触れた時は、「触れている、触れている」と気付きを入れなさい。 触れたと感じる箇所は身体中にいくつもありますが、一度にそれぞれの箇所にだけ気付きを入れなさい。

横になっている姿勢でも、腕や足を変える時に多くの身体の動きがあります。 それらの動作に対して、「上げている」「伸ばしている」「曲げている」「動かしている」など、注意して気付きを入れなさい。 身体の向きを変える時は「変えている、変えている」と気付きを入れなさい。他に特に気付きを入れることが無い時は、いつものように「膨らみ、縮み」と気付きを入れる訓練に移りなさい。 仰向けや横向きに横たわっている時は、普通は特に気付きを入れるものがありません。いつもの「膨らみ、縮み」の訓練を行いなさい。

横になっている姿勢でいる時、心が彷徨うことが何度もあるでしょう。 こうした彷徨っている心も、座る姿勢の時と同様に、出掛けている時は「出掛けている、出掛けている」、場所に到着した時は「到着している、到着している」、「計画している」「思い出している」などのように気付きを入れなさい。 1、2回気付きを入れれば、心の状態は消えてなくなります。 いつもの「膨らみ、縮み」を続けなさい。 唾を飲み込んだり、唾液を出したり、痛みの感覚、暑い感覚、むず痒い感覚など、あるいは姿勢を変えたり、手足を動かしたりする時があるでしょう。 それらを、生じる度に観察しなさい。 (定がかなり育ってくると、瞼を開けたり、閉じたり、瞬きする各動作を観察することもできるようになります。) その後、他に気付きを入れるものがない時は、いつもの訓練に戻りなさい。

眠り

夜が遅くなり、寝る時間になったとしても、観察を止めて眠りにいってはいけません。 観察に熱心に取り組もうとする人は、眠らずに幾晩も過ごす試練に向き合うべきです。

経典では、瞑想の実践において四つの精進(caturaṅga-viriya)の質を育てる必要性を強調しています: 「厳しい取り組みでは、皮と骨だけになって、肉は削ぎ落ち、血は乾くかも知れません。ですが、断固とした忍耐、精進、努力で得られるものが、未だ得られていないのであれば、努力を怠ってはいけません。」 この教えには強い意志で従いなさい。 眠りを打ち負かすのに十分な定があれば、目覚め続けていることもできます。それでも眠りが優位になれば眠りに落ちるでしょう。

眠気を感じる時は、「眠気、眠気」と気付きを入れなさい。 瞼が重い時は「重さ、重さ」、 目が眩みを感じる時は「眩み、眩み」と気付きを入れなさい。 このように観察した後、眠気を振り払い、さわやかさを再び感じるでしょう。 この感覚を「さわやかさ、さわやかさ」と気付きを入れ、いつもの「膨らみ、縮み」と気付きを入れる訓練を続けなさい。 それでも、こうした決意にもかかわらず、非常に眠くて起きていることが出来ないと感じることがあります。 横たわる姿勢では、眠りに落ちやすくなります。 ですから、初心者は座る姿勢か歩きの瞑想を続けることに努めなさい。

それでも、夜が更けると、横たわり膨らみ、縮みの観察に移らざるを得ない時もあります。 この姿勢では、多分、寝てしまうでしょう。 寝ている間は、観察の訓練を実行できません。 これは修行者がリラックスする休止です。 1時間の眠りは1時間のリラックス、2時間、3-4時間と眠り続けるのであれば、より長くリラックスするでしょう。 しかし、修行者は4時間以上寝ないようにしなさい。普通の眠りの場合はそれで十分です。

目覚めること

目覚めた瞬間から、観察を始めなさい。 起きている間ずっと真剣に観察に取り組むことは、道果を得るために熱意をもって取り組む修行者の日課です。 目覚める瞬間を捕まえることが出来ない時でも、いつもの「膨らみ、縮み」の訓練を始めなさい。 まず思い出していることに気づいた時は「思い出している、思い出している」と気付きを入れて観察し、「膨らみ、縮み」と気付きをいれるいつもの訓練に戻りなさい。 まず声や何かの音を聞いていることに気づいた時は「聞いている、聞いている」と気付きを入れて観察し、「膨らみ、縮み」と気付きをいれるいつもの訓練に戻りなさい。 起きる時、あちら側こちら側に向いたり、手足を動かすなどの身体の動きがあるでしょう。 これらの動作を順番に観察しなさい。

身体の様々な動きを導く心の状態に気づいた時は、これらの心に気付きを入れて観察することを開始しなさい。 痛みの感覚に気づいた時は、これらの痛みの感覚に気付きを入れることから開始し、身体の動作の気付きに移りなさい。 動くことなく静かにしている時は、いつもの「膨らみ、縮み」と気付きを入れる訓練を続けなさい。 起き上がろうとしている時は「しようとしている、しようとしている」と気付きを入れなさい。その後、手足の位置を整える全ての動作に対して順番に気付きを入れることに移りなさい。 身体を起こす時は「起こしている、起こしている」、身体を立てて座る姿勢の時は「座っている、座っている」と気付きを入れなさい。また、手足の位置を整える他の動作にも気付きを入れなさい。 特に気付きを入れる対象が無ければ、いつもの「膨らみ、縮み」と気付きを入れる訓練に戻りなさい。

今まで、四つの姿勢と一つの姿勢から別の姿勢に変えることに関する、観察の対象について述べました。 これは訓練のコースで実行する観察の主要な対象の概要の説明に過ぎません。 それでも、実践の最初のうちは、観察の過程でそれらをすべて追いかけるのは難しいことです。 多くのことが見逃されるでしょうが、定が十分強くなれば、既に述べた対象だけでなく、他の多くに対して観察の過程を追いかけていくのが容易になります。 気付きと定を除々に育てていくと、智慧の働きも速くなり、さらに多くの対象を感受できるようになります。 この高いレベルまで取り組むことが必要です。

洗うことと食べること

朝に顔を洗う時や風呂に入るときも観察しなさい。 そういった動作の性質上、すばやく動作しないといけませんから、そうれらの状況が許す範囲で観察しなさい。 手を伸ばす時は「伸ばしている、伸ばしている」と気付きを入れなさい。 柄杓を掴んでいる時は「掴んでいる、掴んでいる」 柄杓を水に浸している時は「浸している、浸している」、 柄杓を身体の方へ持ってきている時は「持ってきている、持ってきている」、 水を身体や顔に注いでいる時は「注いでいる、注いでいる」、 冷たさを感じている時は「冷たさ、冷たさ」、 擦っている時は「擦っている、擦っている」などと気付きを入れなさい。

服を着替えたり、整えたりする時、ベッドやシーツを整えたり、ドアを開ける時など、多くの違う身体の動作があります。 こういった動作に対しても、可能な限り詳細に連続して観察しなさい。

食事の際には、テーブルを見る瞬間から「見ている、見えている、見ている、見えている」と観察を始めなさい。 皿に手を伸ばしている時は「伸ばしている、伸ばしている」、 食べ物に手を触れている時は「触れている、熱さ、熱さ」、 食べ物を集めている時は「集めている、集めている」、 食べ物を掴んでいる時は「掴んでいる、掴んでいる」 持ち上げた後、手で運んでいる時は「運んでいる、運んでいる」、 首を下に曲げている時は「曲げている、曲げている」 食べ物を口に持ってきている時は「持ってきている、持ってきている」、 手を引っ込めている時は「引っ込めている、引っ込めている」、 皿に手が触れている時は「触れている、触れている」 首をまっすぐにしている時は「まっすぐにしている、まっすぐにしている」、 食べ物を噛んでいる時は「噛んでいる、噛んでいる」、 食べ物を味わっている時は「味わっている、味わっている」、 味を好んでいる時は「好んでいる、好んでいる」、 満足を得られたと思った時は「満足している、満足している」、 飲み込んでいる時は「飲み込んでいる、飲み込んでいる」、と気付きを入れなさい。

これは、食事が終わるまでの、食べることの一口一口の観察の手順の説明です。 この場合も、訓練の最初のうちは、全ての動作に付いていくのが難しいでしょう。 取りこぼしてしまうことが沢山あるでしょう。 それでも、躊躇うこと無く、出来る限り沢山の動作を追いかけなさい。 訓練が除々に進むに連れて、ここで挙げた対象よりも多くの対象に気付きを入れるのが容易になるでしょう。

観察の実践訓練の指示はほぼ終わりです。 細かく、そしてやや多く説明しましたので、全部を覚えるのは簡単でないかも知れません。 覚えやすくするために、大事で欠かすことが出来ないポイントについて、これから短くまとめます。

大事なポイントのまとめ

歩いている時は、一歩一歩の動きを観察しなさい。 きびきび歩く時は、それぞれ「右足、左足」と一歩々々に気付きを入れなさい。 一歩々々の動きの足の裏にしっかりと心を固定しなさい。 ゆっくり歩いている時は、一歩々々を「上げている、下ろしている」の二つのパートの分けて気付きを入れなさい。 座る姿勢の時は、お腹の動きに「膨らみ、縮み、膨らみ、縮み」と気付きを入れることで、いつもの観察をしなさい。 横たわっている姿勢の時でも同様に、「膨らみ、縮み、膨らみ、縮み」と動きに気付きを入れる観察をしなさい。

「膨らみ、縮み」と気付きを入れている最中に、心が彷徨うことが分かったら、このような彷徨いを放っておかずに、すぐに気付きを入れなさい。 想像している時は「想像している、想像している」、 考えている時は「考えている、考えている」 心の中で出掛けている時は「出掛けている、出掛けている」、 心の中で、どこか場所に到着したら、「着いている、着いている」など、 すべてに対して気付きを入れて、そうして「膨らみ、縮み」のいつもの訓練を続けなさい。

手足などに疲れ、熱さ、ちくちく(した痛み)、ひりひり(した痛み)や、むず痒い感覚などが生じた時は、すぐさま「疲れ」、「熱さ」、「ちくちく」、「ひりひり」、「痒み」のようにそれぞれに応じて気付きを入れなさい。 その後、「膨らみ、縮み」のいつもの訓練に戻りなさい。

手足を曲げたり、伸ばしたり、首や身体を動かしたり、身体を傾けたり戻したりする動作の時は、それらが生じた順番で連続に追いかけて気付きを入れなさい。 その後、「膨らみ、縮み」と気付きを入れるいつもの訓練に戻りなさい。

これは概要にすぎません。 訓練の中で観察すべき他の対象については、瞑想指導者との毎日のインタビューの時にそれぞれ指示されます。

今まで示したように実践していくと、時間とともに対象の数が徐々に増えていきます。 最初は沢山の取りこぼしがあるでしょう。なぜなら、心がどんなものに固定されず彷徨うことに慣れているからです。 だからと言って、がっかりしてはいけません。 この困難は、普通は実践の最初に出会うものです。 しばらくすれば、心は怠けることは出来なくなります。なぜなら、彷徨っている時はいつでも見つかってしまうからです。 ですから、指示された対象に固定したままにしなさい。

膨らみが生じる時にそれに心が気付きますから、対象と心は一致します。 縮みが生じる時にそれに心が気付きますから、対象と心は一致します。 気付きの度に、対象とそれを気付く心はいつでもペアです。 対象となる物質と、それを知る心の二つの要素は常にペアで生じ、それら以外を除いて、自己、自我という他の形は存在しません。 この現実を、まさにこの訓練で、自分で理解できるでしょう。

物質と心が二つの全く異なる別々のものであるという事実は、「膨らみ、縮み」と気付きを入れている間に、明確に理解されるでしょう。 物質と心の二つの要素は、ペアでつながっていて、同時に生じます。すなわち、膨らみの物質のプロセスは、それを知る心のプロセスとともに生じます。 また、縮みの物質のプロセスは、それを知る心のプロセスとともに生じます。 上げている、運んでいる、下ろしているの場合も同様です。 それらは、それらを知る心のプロセスと一緒に生じて滅する物質のプロセスなのです。 物質と心が別々に生じていることに関するこの智慧は、nāma-rūpa-pariccheda-ñāna 名色分別智として知られています。 それは、智慧の開発の準備段階です。 この準備段階を適切に育てることが大事です。

しばらく観察の実践を続けると、気付きと定が相当進歩するでしょう。 この高いレベルでは、気付きを入れる度に、それぞれのプロセスが、まさにその瞬間に、生じて消えて無くなることを理解できるでしょう。 しかし、一方で無知な人々は、概して身体と心は一生を通じて同じ状態で変わらないままである、同じ身体が大人になるまで発達する、同じ若い心が成熟する、身体も心も一つで同じ人である、と考えます。 実際は、そうではありません。変わらないものはありません。 全てのことが、ある瞬間に生じて、消えてなくなります。 目の瞬きの間でさえ、何もそのままではいません。 変化はとても素早く起こり、それらはまさにその過程で理解されるでしょう。

「膨らみ、縮み」などと気付きを入れる観察を実行するうちに、それらのプロセスは次から次へと素早く連続に生じて、消えてなくなることを理解するでしょう。 気付きの瞬間にすべてが消えて無くなることを理解すると、変わらないものは何もないことを知るでしょう。 この、ものごとの無常の性質に関する智慧aniccānupassanā-ñāna無常随観智です。

次に、ものごとの変わり続ける状態が苦しいもので、望ましくないものであることを理解するようになります。 これがdukkhānupassanā-ñāna苦随観智です。 多くの痛みの感覚の苦しみから、この身体と心の複合体は、単なる苦しみの塊に過ぎないと見なせます。 これもまた苦随観智です。

次に、物質と心の要素は、望み通りには決してならず、それらのもともと持っている性質とまわりの条件によって生じることを理解するようになります。 修行者は、これらのプロセスに気付きを入れる活動に取り組むうちに、これらプロセスはコントロールできないもので、私や生きている実体や、自我などではないことを理解します。 これがanattānupassanā-ñāna無我観智です。

修行者が、無常、苦、無我の智慧を完全に育てたならば、涅槃を実現します。 太古の昔から、ブッダたち、阿羅漢たち、聖者達はこのヴィパッサナーの方法で涅槃を実現してきました。 それは涅槃に導くハイウェイです。 ヴィパッサナーは四つのsatipaṭṭhāna 気付きの実践です。そしてsatipaṭṭhāna はまさに涅槃へのハイウェイなのです。

この訓練コースを受ける修行者は、ブッダたち、阿羅漢たち、聖者たちが乗ったハイウェイにいることを心に刻みなさい。 この機会はあきらかに修行者のpāramī すなわち過去に探し望んでいた努力のおかげ、またそして現在その条件がととのったおかげなのです。 この機会を大いに心から喜びなさい。 このハイウェイを迷うこと無く歩くことで、ブッダたち、阿羅漢たち、聖者たちによって示されたように、定と智慧をすばらしく育てる経験を直々に得られることを確信しなさい。 今までの人生では経験しなかった純粋な定の状態を育て、そして高度な定の結果としての無垢な幸福を味わうことでしょう。

直接の経験から無常、苦、無我を理解し、これらの智慧を完全に育てれば、涅槃を実現できます。 目的を達成するのに長くかからないでしょう。もしかしたら1ヶ月、あるいは二十日、あるいは十五日、あるいは稀に、特別に pāramīを積んでいる人々は七日でも可能です。

ですから、修行する人は、非常に熱意を持って、聖なる道果の開発に必ず導き涅槃を必ず実現することを完全に確信、信頼して、観察の実践に取り組みなさい。 そうすれば、自我の邪見や精神的な疑いから自由になり、そして地獄道畜生道、餓鬼道の惨めな境遇への転生の輪廻から免れます。

みなさんの聖なる努力がすべて実りますように!


著者について

マハーシ・セヤドー尊者、ウ・ソーバナ大長老は、近代の最も著名な瞑想の師匠で、ヴィパッサナー瞑想の現代的な復興の指導者の一人でした。 ビルマの町シュウェボの近くで1904年にお生まれになり、12歳の時に沙弥になられ、20歳の時に比丘として受戒されました。 セヤドーはすぐに仏典の学者として名を挙げられ、比丘出家の5年後にはモウルメインの寺院で仏典をご自身でお教えになりました。

比丘出家の8年後に、明確で効果的な瞑想の実践法を探すためにモウルメインを去られました。 タントンで、ミングン・ジェタウン・セヤドーとしても知られる、有名な瞑想指導者であるウ・ナラダ尊者とお会いになりました。 ミングン・セヤドーの指導の下、ヴィパッサナー瞑想の訓練に徹底的に励まれました。

1941年に故郷の村に戻られ、その地でヴィパッサナー瞑想の体系的な実践を紹介されました。 比丘も在家も多くの人々が実践に励み、セヤドーの念入りな指導がとてもためになりました。

1949年にBuddha Sasananuggaha Associationの幹部であったビルマのウ・ヌ首相とウ・トゥウィン氏は瞑想実践の指導者として、マハーシ・セヤドーをラングーンに招きました。 セヤドーは彼らの求めに応じられ、Thathana Yeiktha Meditation Centreに居を定められ、お亡くなりになる1982年までヴィパッサナー瞑想の徹底的な指導を続けられました。

セヤドーのガイダンスの下、何千人もの人がセンターで訓練し、著作と教えを通じて、瞑想実践の明確なアプローチから多大な利益を受けることができました。 100を超えるThathana Yeiktha Centreの支部ビルマ国内に設立され、セヤドーの実践法は東洋・西洋の他の国々に広まりました。

マハーシ・セヤドーはまた、ビルマの最高の学術的な称号、Agga Mahāpanditaのタイトルをお持ちで、これは1952年に受けられました。 1954年から1956年までラングーンで開催された第六結集においては、セヤドーは質問者(pucchaka)の任を果たされました。この役割は第一結集ではマハーカッサパ尊者が果たされていた役割でした。 マハーシ・セヤドーはまた、結集での全ての経典の編纂の、最終編纂者として、最高委員会のメンバーでもあられました。

マハーシ・セヤドーは、瞑想と仏典のビルマ語で数々の著作の作者でもあられます。 仏教経典の講義は英語に翻訳されBuddha Sasananuggaha Association (16 Hermitage Road, Kokine, Rangoon, Burma.)から出版されています。


初出: Mon June 08 2015 12:22 (+0900)


出典は

The Wheel Publication No. 370/371 (Kandy: Buddhist Publication Society, 1990). Transcribed from the print edition in 1995 by Philip L. Jones under the auspices of the DharmaNet Dharma Book Transcription Project, with the kind permission of the Buddhist Publication Society.

ライセンスは以下のオリジナルに準じます:

Copyright © 1990 Buddhist Publication Society
Access to Insight edition © 1995

For free distribution. This work may be republished, reformatted, reprinted, and redistributed in any medium. It is the author's wish, however, that any such republication and redistribution be made available to the public on a free and unrestricted basis and that translations and other derivative works be clearly marked as such.

(日本語訳) 無料で配布します。この作品はどんな媒体を通じても再発行・再版・リプリント・再配布 して構いません。けれども、著者の望みは、無料で制限のないベースで公に利用できるようにそういっ た再発行や再配布がされて、翻訳や他の派生物はその旨を明記することです。


訳の間違い、意味が通らないなど、御指摘あれば幸いです。

商用の利用は御遠慮下さい。

嫉妬しないこと、他人の美徳を喜ぶこと〜スマナサーラ長老法話メモ(2011年12月18日 オリンピック記念青少年総合センター)

〜muditāの実践からはじまる幸福論〜

 役に合わせた衣装替  

  • 一人でいると嫉妬があるか分からない: 発病しないと治療もできない
  • 嫉妬があることを発見することも大事な事
    • 真面目に生きている人(修行者)が自分の心に嫉妬が無いと思ってしまう
    • テストしないと(嫉妬があるか)分からない
  • 嫉妬(issā)は精神の衣装替
  • 基本的に生命は貪瞋痴の衝動で生きている
  • その中で怒りは多数の顔を持つ: 貪瞋痴の変装に気を付けないと発見できない
  • 主には、怒り dosa, 嫉妬 issā, 物惜しみ macchariya, 後悔 kukkuccha
  • その場の 状況にあわせて怒りは衣装替をする: 王様の衣装に騙されないで、化けていることを見るべき

 反抗的態度は共通  

  • 「自分」に状況・環境・人々が受けれ難い・合わない・気に入らない: その時の反応は「怒り」
  • 「自分」より他人が優れていると感じた時の反抗的態度は「嫉妬」
  • 「自分」が優位な立場で他にその能力・財産などが必要になる時に「物惜しみ」で反抗する
  • 「自分」の失敗に「後悔」で反抗する

 自分こそ偉い (もともとのポイント)  

  • 自分が唯一偉い存在だと思う精神的な病気・錯覚が原因(←気づかない)
  • 生命は平等と認めない・差別意識が強い・自我を肯定したい
  • 無明から起こる妄想によって人はその気になる
  • ブッダが説かれた真理を理解すること・実行すること以外は治療方法がない

 昔から知っている  

  • 昔からも「悪い性格」の一つとして発見していた
  • 昔からも知っているのに治らない理由は?
  • 貪瞋痴・その他の煩悩が心の本能
  • 本能的な問題を解決するには抜本的な改革が必要

 土台は壊せない  

  • 貪瞋痴は精神の基盤として機能する
  • 枝に座ってその枝を伐採することはできない
  • 生存欲と自我愛着のある生命は弱者を壊して生き続ける
  • 壊せない・潰せない強者に対しては嫉妬または恐怖感を抱く

 癖になる  

  • 本能があっても全ていっぺんに機能するわけではない
  • 状況によって悪い性格が現れる
  • 怒り・嫉妬・落ち込み等は繰り返し起こると心がそれに慣れてしまう
  • それによって「個」の性格が成り立つ
  • 簡単に破壊の悪循環が現れる

 世論  

  • 『嫉妬は良くない』という正論に説得力はない: ← 嫉妬の原因を発見していないから
  • 『嫉妬されることは怖い』など、嫉妬の結果を見て『悪い』と判断するが無くす方法については曖昧
  • 『欲・怒りは成長・発展の起爆剤になる』という邪見もある

 経典から  

  • Idha, māṇava, ekacco itthī vā puriso vā issāmanako hoti; paralābhasakkāragarukāramānanavandanapūjanāsu issati upadussati issaṃ bandhati. So tena kammena evaṃ samattena evaṃ samādinnena kāyassa bhedā paraṃ maraṇā apāyaṃ duggatiṃ vinipātaṃ nirayaṃ upapajjati. No ce kāyassa bhedā paraṃ maraṇā apāyaṃ duggatiṃ vinipātaṃ nirayaṃ upapajjati, sace manussattaṃ āgacchati yattha yattha paccājāyati appesakkho hoti. Appesakkhasaṃvattanikā esā, māṇava, paipadā yadidaṃ— issāmanako hoti; paralābhasakkāragarukāramānanavandanapūjanāsu issati upadussati issaṃ bandhati.

    (青年よ、ある女性あるいは男性が嫉妬の心で生活しています。その者は他人が受ける利益・尊敬・名誉等に対して嫉妬する、嫌な感情を持つ、嫉妬の関係になります。その者は嫉妬を優先した生活をして、死後不幸に、堕落した境地に、地獄に生まれる。もしも地獄に落ちること無く人間として生まれたならば、無力・無能の人間になります。他人の利益・尊敬・名誉などに心を痛める、悩む、嫉妬するなど嫉妬の性格は、青年よ、無力・無能の生命になる道です。)

    Majjhimanikāya > Uparipaṇṇāsapāḷi > 4 Vibhaṅgavagga > Cūḷakammavibhaṅgasutta (小業分別経)

 嫉妬のはたらき  

  • 過去生で嫉妬の癖があったならば、存在感の無い無能の人間になるという話
  • 嫉妬は心をどんどん衰えさせていく
  • 嫉妬するたびに人の能力が衰える・オーラも威力も無くなる

 始めたら終われない  

  • いったん嫉妬が起きたら限りなく成長させることは簡単に出来る
  • 嫉妬は他人の良い所・美徳を認めない・我慢できないという暗い気持ち
  • 他人を自分と比較する
  • 相手の美徳は自分より優れていると発見する
  • 自分の無能に対する怒りが嫉妬
  • (そもそも)生命は平等だが、同一ではない: 能力も様々: だから他の生命と自分とを比較すると、自分にはない能力がいくらでも無制限に見つけることが出来る
  • それらに対して嫉妬する癖が現れたら、嫉妬の気持ちは成長するばかり

 楽しくはない  

  • 嫉妬 = 「心が衰えていく」のは決して楽しくはない
  • 嫉妬の対象になった相手はどんどん成長するのに自分は衰えていく
  • さらに、嫉妬・憎しみ・恨み・怒りも増幅される: ← これを大量の怒りのエネルギーがサポートする
  • 自分からみんなが離れていく・煙たがれる

 危険性  

  • 嫉妬は恐ろしい精神病
  • 心の成長をストップさせるので仏教では軽く見ない心の汚れ
  • 自分と他とを比較すると māna (慢) という煩悩も起きるが、嫉妬ほどは破壊力がない: (慢を活用して)優れた人と等しいようになろうと努力するならば、成長する可能性もある
  • (それに対して)嫉妬は高濃度の核廃棄物のようなもの: 遣い道はない

 muditā : 嫉妬の解毒剤  

  • muditā(喜)の実践は嫉妬に対する特効薬
  • 仏教の高の実践方法も有効ですが、心理学的に「喜」は嫉妬の反対
  • しかし「嫉妬漬け」の人には実践できないケースもある
  • 嫉妬は、末期になる前に、初期段階で実践する方がよい

 1  

  • "基本的に自分が喜びを感じる訓練"
  • (例えば)『金がある』『家族は楽しい』『出世できた』などでも喜びは感じられる: しかし、これらによって心が清らかになる・成長する保証はない
  • (さらに)無常なので、財産・名誉などが無くなったら喜びも悲しみに変わる
  • これらの喜びによって得られる安らぎは安定しない
  • お釈迦様は喜びの対象として自分以外の生命を選ぶことを推奨された
  • まずは、自分という生命は自分の喜びを感じて経験する
  • それから他人を観察して喜びが生まれるようにする

 2  

  • 他人を観察する時、「喜びを感じる」という色眼鏡をつけて見る: ← 喜びの感情しか入らない・感じないようにする
  • 要するに敢えて心に或るバイアスをかける実践
  • 俗世間も『狭い見方』だと思うでしょう
  • 一切のバイアスを無くしてありのままに観察する方法を説く仏教に矛盾すると思うかも知れません
  • しかし、この見解は「生命の法則」に沿った正しい見解: 「生命の法則」とは、「生命は喜びを目指して生きている」ということ

 3  

  • あえて育てる見方なので「正見」ではなく、八正道の「正思惟」に属する
  • 喜びを感じると生命は成長する
  • 能力は向上する
  • 才能を発揮できる
  • 世の中の激しい変化に動揺することなく対応できるようになる

 4  

  • 身体も心も健康になる
  • 落ち着いていられる
  • 他人に好かれる
  • 自分に逆らう人、ライバルがいなくなる
  • 沢山の人々に囲まれて生活することになるが、それもストレス・苦痛にもならなくなる
  • ストレスと縁のない生き方ができる
  • 知らないことを皆喜んで教えてくれるようになる
  • 記憶力・理解力はスピーディに向上する
  • 集中力が向上する
  • 智慧が徐々に現れる
  • こころの汚れが徐々に少なくなる
  • 解脱の門は開く

 5  

  • まず自分が気に入っている何人かを選ぶ。一人でも可。
  • 人間がいないならペットでも他の動物でも良い
  • その生命の良い所を思い浮かべる、心の中で微笑んでみる
  • 次に、その相手がもっと幸福になったら良いな、と思う

 6  

  • (初期段階では) 相手を選ぶ時は気をつける
  • 性欲・愛着を引き起こす相手を避ける: 性欲・愛着を引き起こす相手に対しては、微笑むどころではなくなる(伴侶はよくない・我が子も対象にしないほうがよい)
  • 無垢の微笑みが起こるような相手を選ぶ
  • そんな贅沢が言えない場合は、感情を控えて冷静に見られるようにする

 7  

  • 選んだ相手の美徳・良い所・気に入っている所・長所ばかりを敢えて思い浮かべる
  • 微笑んでみる
  • 短所が見えても直ちに無視する
  • 短所より長所を拡大してみる
  • 相手が喜びを感じている事柄を調べて、同じ感じ方になるようにして微笑んでみる

 8  

  • 徐々に対象になる生命の数を増やしてみる
  • 「友達の友達は皆友達」という方式
  • 「吾子の仲間は皆我が子と同然」というように人の数を増やして心で感じる喜びを増大させる
  • この方法はリミットになるまで続けるべき

 9  

  • 親しい関係がない生命の美徳も感じるように、と次のステップへ進む
  • 例えば、公の場・集会場・電車・コンビニ・デパートなどで人と話をしてみる
  • なにか楽しい短い会話・挨拶・冗談などを言ってみる
  • 自分の関係ない人々も観察して「美徳発見の探検」をしてみる
  • 自分のことのように喜んでみる

 10  

  • 智慧の登場
  • 関係ない人々・生命にも各々の美徳があると発見できたところ
  • 結局「生命は平等」
  • 「嫌な生命は存在しない。皆、何かしら美徳がある・可愛いところがある・評価することが出来る」
  • この事実を身をもって理解する

 常識ではない  

  • この方法で感じることが出来る喜びは尋常でも常識でもない
  • 普通の人間に普通に経験できるものではない
  • 一般の人は突然大喜びを感じたら気を失ったり泣き崩れたりする: ← 耐久性のない・脳に処理ができなくなったということ

 常識を超えて  

  • ブッダの実践方法は完全に安全に徐々に喜びを感じる範囲と量を増やしていくもの
  • 無量の生命を認識して喜びを感じるようになると常識の範囲を超える
  • こころはボロボロの肉体から離れて機能するようになる
  • これはsamādhi(定)という境地

 もったいない  

  • これほど簡単に究極的な喜びを感じられる方法があるのに
  • 世界から虐め・虐待・差別・嫉妬・憎しみ・ストレスをなくす方法があるのに
  • 「全知全能」のように生きられる方法があるのに。
  • 人間の能力を超越できる方法があるのに。
  • 誰にでも実践できるのに。

メモを元にしているので、不正確な部分があります。(必ずしも長老がお示しになったパワーポイント の内容通りではありません。)

慢との付き合い方 — なかなか消えない高慢・卑下慢・同等慢 〜スマナサーラ長老法話メモ(2011年7月23日 オリンピック記念青少年総合センター)

〜なかなか消えない高慢・卑下慢・同等慢〜

 「慢」— 言葉の意味  

  • パーリ語でmāna
  • ∼ 「測る・計る・量る」√ manの語幹から「常に測ってみる性格」を表す単語でしょう
  • 考える mañāatiの語幹も√ man: → 妄想する・思い込むという意味で慢かも知れない
    • しかし、māneti(manのcaus.)という動詞の意味は「慢を張る」ではなくて「尊敬する」
  • 測るの動詞はmināti
  • 間違いを犯した出家・見習い出家の戒めの行はmānatta (see Buddhist Monastic Code II Chapter 19 Penance & Probation by Thanissaro Bhikkhu )

 何を測る?  

  • 米を計ったりなど必要な秤もある
  • 慢というのは自分を測ること: 天秤に使う分銅は「人・他人」なのです。
  • 自分のエゴ・存在感を他人と比較して測ってみる
  • 分銅になる他人によって自分の方が「1: 重い、2: 等しい、3: 軽い」という値しか出ないが、その値も一定とならない

 何故、測るのか?  

  • 人には「自我・エゴの意識」はあるが、自信がなくて不安
  • 他人と比較して測ることで『自我を確立』したいのです
  • しかし、測れば測るほど「自我の値」が変わるので自我の確立のつもりが限りのない自我不安という結果になってしまう

 自我の値とは?  

  • 自分にどの程度の価値があるのか知りたい、そうしないと不安でたまらない
  • "value of self" (自分としての価値)を知るために測る
  • これが慢ということ
  • 「自我の値」とでもいいましょうか
  • 人間は何にでも価値をつけたくなる
  • 価値が分かれば対応の仕方も決める
  • それで「執着の強度」を決める
    • 測る→価値を入れる→執着の強度を決める
  • その中でも究極の価値を「自分・自我」に付けたい・付けている

 自我の値にも分類はありますか?  

  • あります:(仏教は何でも分析・分類しますからね)
  • 人間の価値観はデジタルではない
  • まず、重い・等しい・軽い、という三種類
  • 高慢・同等慢・卑下慢
  • atimāna, sadisa māna, hīna māna
  • 思っていたより重い・等しい・軽いという結果になるが、この3つの値は常に変動する。

 慢は3つだけですか?  

  • 実は一つですが、見方によって種類がある
    1. セット1
      1. 自分は他人より優れている
      2. 自分は他人と等しい
      3. 自分は他人より劣っている
    2. セット2
      1. 自分より優れている人より自分はより優れている
      2. 自分より優れている人と自分は等しい
      3. 自分より優れている人より自分は劣っている
    3. セット3
      1. 自分と等しい人より自分はより優れている
      2. 自分と等しい人と自分は等しい
      3. 自分と等しい人より自分は劣っている
    4. セット4
      1. 自分より劣っている人より自分はより優れている
      2. 自分より劣っている人より自分は等しい
      3. 自分より劣っている人より自分は劣っている

 出典はありますか?  

  • Abhidhammapiṭake Vibhaṅgappakaraṇaṃ (PTS Page 389)
  • Tattha katame navavidhā mānā: seyyassa seyyohamasmīti māno, seyyassa sadiso hamasmīti māno, seyyassa hīno hamasmīti māno, sadisassa seyyo hamasmītimāno, sadisassa sadiso hamasmīti māno, sadisassa hīno hamasmīti māno, hīnassa seyyo hamasmīti māno, hīnassa sadiso hamasmīti māno, hīnassa hīno hamasmīti māno. Ime navavidhā mānā.

 九慢の生起の具板的な例  

  • 私はアビダンマの九慢を十二慢にしました
  • セット1: 凡夫にある普通の慢
  • セット2-4までを理解するには、「思っていたのに」を加えてみてください
    • 例: 『あの人より出来る/優れている/偉いと思っていたのに、実は劣っている』
    • 『あの人は自分より劣っている』と普通思っているのは高慢

 測ることは断言的に悪いのですか?  

  • それは条件によります
  • 理性に基づいて自分を向上させるために自分と他人を比較して測ることは構わない
  • 自我の錯覚を肯定する測りは良くない
  • 測ることで悪感情が起こる/自分の能力が衰えるならば悪
  • 解脱を目指す人には障碍になる束縛(10あるsaṃyojana(十結)の9番目: 9番目というのは相当消えにくい: ←8番目の勘違いでしょうか)
    • saṃyojana: 'fetters': (BUDDHIST DICTIONARY by NYANATILOKA MAHATHERA)
      1. 有身見 personality-belief (sakkāya-diṭṭhi)
      2. 疑 sceptical doubt (vicikicchā)
      3. 戒禁取clinging to mere rules and ritual (sīlabbata-parāmāsa; s. upādāna)
      4. 欲貪 sensuous craving (kāma-rāga, 4.v.)
      5. 瞋恚 ill-will (byāpāda)
      6. 色貪 craving for fine-material existence (rūpa-rāga)
      7. 無色貪 craving for immaterial existence (arūpa-rāga)
      8. 慢 conceit (māna)
      9. 掉挙 restlessness (uddhacca)
      10. 無明 ignorance (avijjā)

 慢が起こる順番  

  • 順番はない
  • その時の感情・妄想・体調・環境などによって9種類の慢の中の一つが起こる
    • 例えば落ち込んでいる時は卑下慢とか、気分爽快の時高慢のグループ、など
  • 心には「慣れるクセ」があるので、起こる慢のパターンが出来て性格になることはあります

 慢のクセがある/なしの違い  

  • 悲観主義者・被害妄想・傲慢な人・頑固者などの表現でも分かるように、慢のクセが出来て発見しやすい (慢の性格がバレてしまうと皆その人を捨てる、慢は他人にバレないようにするしかない)
  • 精神病に陥りやすいし、治し難い
  • クセになっていない場合は慢はその都度変わる
  • 治る訳はないが、気を付ければ良い: 優柔不断でよい

 慢とは自分のidentetiyではないでしょうか?  

  • 生きている限り皆「自我意識・自分がいるという実感」はある
  • identityとは自分と他人とを区別すること
  • 当然、生命は個なので self awareness がある
  • それに価値をつけることで「クセもの」の「慢」に変わってしまう
  • 価値感がないと凡夫は生きていられない

 では「慢は本能・不可欠」という意味ですか?  

  • 輪廻転生する生命には慢は本能で不可欠
  • たとえ覚っても阿羅漢果になるまで消えないのもそのため
  • 完全に覚りに達するまで生命には慢の銷を外すことはできない
  • しかし、慢は様々なトラブルを起こす原因になる煩悩

 慢の悪性とは?  

  • 「我儘・自我を張ること・頑固」は悪いと常識になっている
  • 『常識だから悪』ではない
  • 人は誰でもエゴ・我儘・自我を張ることの悪果を経験している
  • 自我あるいは慢が悪性になると客観性がなくなって自分のことしか見えなくなる (自我 イコール 慢)
  • それで何をやっても悪い結果になる

 多岐に渡る慢の元は何でしょうか?  

  • 大元は無明
  • まず、人に自我意識がある(認識の結果から起こる錯覚)
  • 生命は自分自身のことを何よりも好むので自分に価値をつける
  • 自分の命に普通究極の価値をつけるので自我意識は慢に化けるし、それが高慢なのです (元は高慢)
  • 高慢があるから卑下慢も生まれる

 何故、多岐に渡るのでしょうか?  

  • 生きてみると、自我中心的な高慢が現実と合わないことに気付く
  • その時、慢を捨てれば良いのに、無明なので失敗する
    • 現実に合わせて高慢を「高慢・同等慢・卑下慢」に変える
  • 元は「我こそ偉い」と思う根拠の無い愚かさです

 慢に強弱はありますか?  

  • 当然あります: 慢が薄い人・厚い人もいる
  • 日常で薄くなったり厚くなったりする
  • 慢は
    1. 潜在的になる
    2. 普通に現れる(気づかない)
    3. 強くなる(気付く可能性がある)
    4. 異常になる(他人に分かる; 本人には無理)
    5. 度を超す(罪を犯す; 気づかない)

 慢が人生に与える影響は?  

  • 慢は無知(無明)の子で仲良しのペア
  • 欲と慢という心所は同時に生まれる
  • まず、欲と絡んで自我中心的な人間になる
  • 次に慢は無知を強化する(→どんどん人はバカになる)
  • 無知は全ての悪心所と同時に生まれる
  • 無知が強ければ悪心所が力を発揮する
  • 慢は直接何もしない
  • 無知を強化するから、欲・怒り・嫉妬などの心所が影響を受けて結果を出す。身口意の行為を起こす
  • とても危険なのは理性を失うこと: 感情の奴隷になっていまう
  • (例えば) immune system (免疫機能)が壊れたとしましょう:
    • それだけでは何の問題もない
    • しかし、外の空気を吸っただけで細菌に感染して死ぬかも知れない
    • どんな細菌もその身体を殺すことが出来る
  • 慢は悪に対する心の抵抗力を無くしてしまう
  • 生命が自殺することはあり得ないこと。しかし慢が度を越すと何の躊躇もなく自殺を図る (自殺は怒り)
  • 慢によって理性を失う(= 無知の強化 =ありのままに物事を観察できない)
  • それから間接的に全ての能力が低下する・意欲を失う・欝になる
  • 感情は嵐のようにはたらく
  • 理性が無いとは柔軟性がないこと・頑固であること
  • 慢が度を越すと、ブッダにも治療不可能になる

 慢が本能でidentityであるなら、どうすればよいのでしょうか?  

  • 成人病など治らない病気に罹ったらどうする?
  • 巧みに付き合う
  • 解脱に到達するまで慢と巧みに付き合う
  • 慢を逆手に取る

 慢と付き合う方法  

  • 慢があっても理性を保つ
  • 理性を失ったら自分が惨めになると恥をかく、みっともない、格好悪いと思うようになったら、それも慢ですが自分を支えてくれる
  • 善悪の区別を明確にして自分のプライドをバネにして善を行う
  • 誘惑される時、自分の慢で自分を守る
  • 道徳的・理性的・智慧がある勝れた人を見て比較して自分は劣っていると気付く(卑下慢)→ その人に等しくなる努力をする
  • 無知な人・道徳感の無い人を見て比較する→このようには絶対になりたくないと努力する(高慢)
  • 善人の仲間になっているなら、そこから堕ちないように努力する(同等慢)

 慢との付き合い方  

  • 自分の慢の焦点を善にあわせれば慢が自分を育ててくれる
  • 自己破壊するところまで陥れる慢を巧みに使用すれば、解脱に達するまで応援してくれる衝動になる
  • 慢をもって慢を制する
    • 仏教では『怒りをもって怒りを制する』とは言わない

 経典から  

  • アーナンダ尊者がある比丘尼に語る:
  • Mānasambhūto ayaṃ, bhagini, kāyo mānaṃ nissāya. Māno pahātabbo.

    妹よ、この身体は慢によって構成されています。その慢をよりどころにして慢を無くすのです。

    (Aṅguttaranikāya Catukkanipātapāḷi : Catutthapaṇṇāsaka: Indriyavagga Bhikkhunīsutta )

  • その意味は何でしょう?
  • 「あなたにこのように情報が入ります:"ある比丘は精進努力して一切の煩悩を絶って、心解脱、慧解脱に達してこの世で一切の苦しみを乗り越えているのだ"と。そう聞いたなら」
  • kimaṅgaṃ panāhan’ti

    (Why not me?)

  • そのように思いなさい。あと、その人は慢を依り所にして慢を断つのです。
  • お釈迦様もĀlāra KālāmaUddaka Rāmaputtaの両仙人のところで似たような考えを起こして初めて高度な禅定に達したと記してある
  • 慢を叩くとゴールに達するまでめげない人間になってしまう

 解脱と慢の敵対関係  

  • 煩悩:十結:
  • 阿羅漢果で上分結が無くなる: 阿羅漢になるまで残る慢は上級レベルの無知
  • 渇愛・慢・無明は存在を築く根本的な働き
  • 預流果になっている方には、自我・エゴ・魂という気持ちは全くない
  • しかし自分がいるという実感がある。これを慢という
  • さらに修行しなければならないと知っている
  • 悪を犯す、俗世間に帰る煩悩はないのでのんびり落ち着いている可能性はある
  • 不還果は確実に梵天に生まれるので死を気にしない
  • 上分結の力は聖者を梵天に転生させる程度です。悪さはしません。

 結論  

  • 慢は存在感そのものなので、簡単には断てません
  • 他の煩悩と組み合わさると慢は危険
  • 慢は氾濫しないように制御する
  • 巧みに使えば役に立つ
  • 無常・苦・無我に納得しているならば、常に慈悲の実践、気づきがあれば慢は問題を起こさない

メモを元にしているので、不正確な部分があります。今回は終盤のスライドはかなり早く流しておられてメモが出来ていません。(必ずしも長老がお示しになったパワーポイント の内容通りではありません。)


初出: Sun August 14 2011 22:49 (+0900)